File25 小田 重義 氏 Shigeyoshi Oda

プロフィール
静岡老人ホーム創設者〜県老人クラブ連合会初代会長〜

はじめに

本県老人クラブ連合会の初代会長である小田重義氏は、本県中部地区で初の養老施設静岡老人ホーム創設の功労者である。
高齢化社会への対応がなにより大きな社会的問題とされている今日、高齢者が自ら地域社会のなかで役割を果たそうと組織され全県下に根をおろしている老人クラブの存在はあらためて注目されている。
在宅福祉の主要な対象がそれぞれの地域で生活をしている後期高齢者であることからも高齢者同士のささえあい、はげましあいとして日常活動が地域福祉活動の大事な柱であり、社会福祉協議会の重要な構成メンバーともなっているのが老人クラブであろう。
早くも昭和28年に居住地区に老人クラブを結成させ、県下にひろげるため大きな力をよせられた重義氏の足跡を子息重臣氏の資料からたどって見たい。

警察官時代

重義氏は、明治21年6月安倍郡曲金に農業を営む父幸助、母くらの三男として出生。静岡師範付属農業科を修了、時に20歳であった。農業科をでるも独立すべき耕地もなく静岡鉄道株式会社に入社。当時は軽便鉄道で静岡・清水間を往復していたので、清水始発に乗務する日には2時間余かけて歩いて通った。そうした日、母が3時起きをしてかまどに火をつけるのをみるに忍びず、2年後静岡県巡査となる。教習所を卒業し、下田警察署勤務となり同郷の鈴木いし女と結婚する。
警察官の結婚は当時所属長の承認が必要であり、今も小田家には「結婚の件承認す」との下田署長の公印の押された承認書が、金婚式の時の賀詞とともに額におさまって飾られている。妻いし女は気丈なところがあり夫が駐在所勤務のときのこと窃盗犯の取調べ中本署への緊急連絡ででかけた夫のあと、終日被疑者を監視して帰りをまったという。重義氏がその後はじめて警察署長となったのがこの下田署で、想い出多き土地となるのである。その後、清水・浜松・静岡の各署長を歴任するが清水署時代に元老西園寺公望公や田中光顕伯など明治の元勲の警備に心をくだき、田中伯からは自ら朱書で校正した珍しい伝記を拝受している。またこの清水署時代に方面参事の委嘱をうけたのが社会事業とのかかわりのはじまりで、当時県内の方面委員は200名であったという。
昭和10年、出身地の署長にはなれないというジンクスを破り県都静岡の署長となり、翌11年、二・二六事件がおこる。坐漁荘の西園寺公も襲撃目標との情報が入り知事公舎へ避難したが「中止の報があるまでの警備の緊張は心胆を寒からしめるものであった」と回顧している。昭和14年退官するまでに、日露戦争出征軍人遺児の救済を目的に設立された静岡ホームの評議員や県方面事業委員会委員などを拝命したことも「社会事業への認識を培うにプラスになったと思う」とは重臣氏の言葉である。

静岡老人ホーム設立

戦後まもない昭和21年なかば、静岡軍政部のI・ランドルフ女史が静岡市救護所を視察、老若男女が一緒に収容されているのをみて、老人を別の施設に保護するよう勧告する。主任の菊池与惣吉氏が市長に報告、市は市財政の困窮するなかでの対策に苦慮し、この重責をになう民間の力に委ねようと市議であった重義氏に白羽の矢をたて菊池主任を説得にあたらせる。この熱意に動かされ、もともと民生安定のためにと立候補したことでもあり養老施設の設置運動の中心に立つことを決意する。
昭和22年9月、小田重義・広瀬修造・青島いくの3人を代表とする「静岡老人ホーム創設準備委員会」が発足する。国・県補助は民間なる故得られず、金額寄付の計画で県下一円に寄付募集の許可を申請するも、たまたま同時期発足の共同募金との競合で挫折、軍政部・県の示唆を得て公立民営の形をとるも戦災復興に手一杯の市からの出費が困難なため後援会を組織して資金づくりに入る。当時市議で田中屋の経営者青島富太郎氏を委員長とする「創設協賛会」をおき、市青年団・婦人団体・民生委員に商店街も加わり、協賛バッチの頒布や、市民拠出品バザー、鐘の鳴る丘の上演、渡辺はま子の音楽会などあらゆる企画をもって収益をはかった。
一方NHKの協力を得てラジオをとおして、児童のお年寄りを思う作文の発表、静岡新聞などをとおして多くの市民に協力をよびかけ、当時の金額にして百数十万円の不足額をあつめることができ、老人ホーム建設を実現するのである。こうして静岡老人ホームは昭和24年、県下第4番目の生活保護法による養老施設として発足する。経営主体も創設準備委員会、創設協賛会を解散し「静岡市厚生事業協会」と名をあらため誕生するのである。当時市から施設名を静岡市老人ホームとしたい意向が示されたが、広域の老人を保護する意気込みであり県を代表する施設を目指したこと、ただ原点は市民福祉を願ってのことであるので法人名に市を入れることでおさまった、というエピソードがのこされている。
同時期軍政部の勧告で老人分離を行ったのが富士育児養老院で、伊豆長岡町の社会事業関係職員の保護施設いづみ荘を転用する形で老人を収容した。今日の長岡寮湯の家がそれである。

「老人ホーム」の由来

昭和24年12月末現在の「全国養老施設調査」(全国養老事業協会刊)によれば、当時施設数146施設、このなかで老人ホームを施設名に用いているのは3施設であった。
すなわち
東京老人ホーム(東京 大12.2.12設立)
慈愛園老人ホーム(熊本 大12.4.7設立)
静岡老人ホーム(静岡 昭24.8.4設立)
の3ヵ所である。
昭和22年設立準備のころのメモには養老院の字句も出ていたが、先進施設として下松桂馬氏(全国養老事業協会会長)の紹介で東京老人ホームを視察したこと。重義氏が養護施設静岡ホームの評議員の経験のあったことなどからホームの名称になじんでいたのではないか。また新憲法の趣旨からも創設趣意書にある「近代的様式をとり、従来の養老院の感じを払拭したものにしたい」との願いをこめて、全国的にもさきがけとしての老人ホームの名がつけられたのではないか。とは重臣氏の調査結果による説明である。
重義氏がのちに全国養老事業協会発行の「養老事業だより」(昭和25年1月刊)に寄稿した「老人ホームの運営の構想」のなかに次のような一文がある。

「この施設は、本県中部県民の総意の結果で建設されたといっても過言ではない。隣人愛の具体的な表現の結実であると信ずる。この故に運営の構想を次のようにたてた。
1.明るく清潔なホームとして同種施設の模範であるようでありたい。
――老人を収容するのであるから暗く陰気になりがちである。この点に工夫をこらしたい。
2.ホーム長並びに職員(特に若い婦人)に社会事業に深い理解と経験を有する婦人を運営にあたらせる。
――今日まで日本では婦人を重要なポストにすえることをしなかったがこうした社会事業こそ婦人に課せられた責務ではあるまいか。」

また別の寄稿文(昭和27年11月刊 養老事業だより)のなかで次のようにのべている。

「経営面で苦心することは、なんといっても資金の面である。特に小規模の施設はその感が深い。当初生活扶助費1人月額1,155円、事務費1人日額23円、合計1,800円強では諸物価の値上がりのおりからとうていまかないがつかず毎月赤字続きで非常に困難をきたした。それが現在扶助費1人月額1,700円、事務費1人日額48円となり、十分とはいいがたいが緩和されてきた。」と苦労の一端をあげながらも、
「収容者が入所当時とうって変わって柔和にして円満な顔に喜々として余生を楽しんでいる姿を眺める愉快さは、養老事業にたずさわるもののみが知るところであろう。」と。

この仕事にかけるものでなければ表現できえない言葉である。

社会事業金庫の提唱

さらに福祉業界を代表しての要望として次の2つをあげている。

「1.社会事業金庫の設置促進について
民間社会事業の施設経営者の共通の悩みは資金の面である。しかるにこの経営にあたる主たる財源は生活保護法、児童福祉法による交付金であって運営上余裕あるとはいえない。建物の小破もその都度補修すれば少額で足りるが、資金なきため放置し修理するため多額を要する。また収容者が増加したため増改築を計画しても制約されてできない実情である。金庫創設については数年来の悲痛な叫びである。一日も早く実現できるよう望んでやまない。
2.民間社会事業者の共済制度を実現せられたい。
民間社会事業従事者は崇高なる職務に感激して、薄給に甘んじ不平不満もなく勤務しているのである。しかし為政者は声なきが故に放置しておくべきでない。従事者も生活の安定と将来の福祉が約束されてこそ、完全なる勤務ができるのである。そこでぜひ共済制度を確立していただきたい。」

以上のいずれも今日では実現しているが、こうした先人のたゆまぬ発言と活動があってはじめて実現したものであることをあとにつづくものはわすれてはなるまい。

県老連の結成へ

本県老人クラブ活動の親ともいえる重義氏の老人クラブとのかかわりについて重臣氏は次のようにのべる。

1.昔からある同好老人の寄り合いでの親睦とか、部落の先覚者による老者集団のまとまりなどといったことは別として、おそらく制度的な老人クラブのことを知るのは親交のあった芹沢威夫氏からであろう。
昭和25年6月静岡老人ホームにおいて県下養老事業運営研究会を開催し講師として芹沢威夫氏を招いた。主題は養老施設の統括機関設置の件であったが、芹沢氏が英国大使館の資料等を介してえた最新知識として老人クラブの紹介をされている。
2.翌26年7月伊豆長岡町湯の家において静岡県養老事業協会発足式を行いこの席にも芹沢氏の来静をお願いしているので老人クラブの推進についても話合いされたことと思われる。この会場湯の家の寮長が渡辺鋭氏であり、翌27年10月27日に地域に働きかけて伊豆長岡町老人クラブを設立している。本県第1号である。
3.重義氏が静岡市西千代田町に長岡町におくれること1年、昭和28年11月1日、西千代田町楽寿会を設立、本県第2号である。同時期に老人ホーム所在地の小鹿地区にもクラブを設立している。
4.昭和34年6月15日、県社協の厚生事業部会に老人クラブ分科会が設置されるや委員長に選出された。翌35年2月27日には、ようやく単位クラブの数を増してきた静岡市内のクラブをまとめて静岡市老人クラブ連合会を組織し会長となる。
5.昭和37年4月5日全国組織結成の機運がたかまり、全国老人クラブ連合会が組織されるにあたり本県を代表し理事になる。
6.昭和37年6月1日、全国組織におくれること2ヵ月にして県内のクラブをまとめて静岡県老人クラブ連合会の結成がなり初代会長に就任する。
7.この間において老人クラブ育成推進に尽力した方に県社協の秋口常太郎事務局長、佐藤賢三主事他各地域において渡辺鋭氏を始め多くの方々の努力が積み重ねられたことを忘れてはならない。

老人クラブのすすめ

また重義氏が県社会福祉時報(昭和29年9月号)に「老人クラブの結成を提唱する」と題する一文をよせているなかで次のように説いている。

「なぜに老人クラブを造る必要があるか、理由が判然としなければその結成をすすめがたい。ここに愚見をのべさせていただく。
昔から人生は50年といいながら、昭和10年には日本人の平均寿命は、男が46.9歳、女が49.6歳であった。ところが終戦の昭和22年は男子50.6歳、女子65.7歳であり、わずか6年の間に平均寿命が10歳以上も伸びたのは世界の驚異だとのことである。
しかしアメリカの1950年(昭和25年)で男が66.6歳、女72.4歳であるから、わが国でもまだまだ寿命は伸び人生70年の実現する日も遠くはあるまいと思う。
さて、寿命学の問題になると、日本では昭和25年に65歳以上が411万人総人口の4.9%である。この老齢化指数は、アメリカ8.1%、イギリス11.8%、フランス9.7%、オランダ7.7%であるということである。わが国はまだまだこれらの国には及ばないが、だんだん増してくることは事実である。
しかし、このせまい国土でしかも敗戦の痛手を負う我が国としては教育、文化、特に経済の復興は容易ではない。再建日本のため老いも若きも心を一つにして粉骨砕身しなければならない秋(とき)である。いかにデフレによる金づまりになるとはいえ親が子を殺し子が親を捨てるという殺伐の世相であってはならない。年寄りはかつては一家の柱石であり、郷党の長老として今日の社会を築くため存在した人々であり、現在尚社会を構成する重要な要素であるので若い人は年寄りの功績と意義を認め、感謝と敬愛の心を持つと同時に、年寄りも自ら反省し、時代感覚を身につけその本分を自覚し、すすんで新しい時代への協調と奉仕とに心がけるべきである。それにはまず老人クラブを結成して、時々会合し互いに慰めあい親睦をはかり、修養につとめ、意見の交換をおこない、長寿についての研究懇談をなし、短所をあらため長所をのばし、時代を洞察しかつての技術経験を発揮して、もって社会に貢献するようつとめるべきである。老齢者の数が増しつつある現在、老齢者をいかに有効に用いるか、そして若い人達をどのようにしてのびのびとはたらかせるか、ということは大きな問題であるので、これらを研究するためにも老人クラブの結成こそ刻下の急務であると思う。」

この提言は今になお生きるものと思われると同時に80歳人生を平均とする今日との時代のながれを知らされる貴重なものである。と考えられるので長文をそのまま引用させていただいた。

知事の弔辞

重義氏の告別式にあたり数多くの弔辞がよせられたなかから、ときの県知事の弔辞を引用させていただき、その功労をしのびたい。

「謹んで今は亡き静岡市厚生事業協会理事長小田重義氏のご霊前にぬかずき、衷心より告別の辞を申し上げます。
あなたは、明治21年6月23日静岡市に生まれ、人となり温厚にして英才の誉れ高くその後警察官を拝命し、昭和10年静岡警察署長を最後として退官されるまで県内の治安維持に御尽力されました。
その後終戦直後の社会混乱期であった昭和22年には静岡市議会議員に選ばれ、戦争犠牲者として身寄りのない老人の救済に立ち上がり、静岡老人ホーム創設準備委員会を設立してその委員長に就任されるや老人ホーム建設促進に力を注ぎ、昭和24年には静岡市小鹿に静岡老人ホームを開設、以来老人福祉のために心血を注いで貢献されました。
また、昭和24年には静岡市厚生事業協会理事長に就任され老人福祉関係団体の指導育成に寝食を忘れて奔走し静岡市の老人クラブ連合会の結成をはじめつづいて静岡県老人クラブ連合会をも結成しその会長に就任して老人福祉の増進に御活躍されました。
また、そのかたわら全国社会福祉協議会、静岡県社会福祉協議会などの役員として社会福祉事業の高揚に真摯な努力と非凡の才能をふるわれましたことは今なお県民の記憶に新たなところでありまして私共ひとしく感謝いたしているところであります。
しかるに老人福祉をはじめ社会福祉がようやく新しい転機を迎えんとするおりから氏の豊かなる識見を期待しておりましたところ突如病魔の侵すところとなりご家族の心からなる看護の効も空しく不帰の客となられましたことは悲しみのきわみであります。(後略)

昭和44年2月14日

静岡県知事 竹山祐太郎 」(志田 利 筆)

※ この文書は平成元年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )