File30 鈴木 生二 氏 Seiji Suzuki

プロフィール
十字の園創設者~日本初の特別養護老人ホーム~

<行く先をしらないで>

その生涯を閉じる1年前、鈴木生二は「夕暮れになっても光がある」と題して小冊を発行している。病を得て、死を迎える心得であったと思われる。彼はそれを配布するに当たり、「謹呈」の短文にこう書いている。

「西独乙ミュンスタ、ムッターハウス(母の家)から派遣されて参りましたシュベスラ・ハニウェルフに協力して特別養護老人ホーム十字の園を創設したのが昭和36年1月20日、御殿場十字の園を昭和46年4月1日、伊豆高原十字の園を昭和56年4月1日に新設しました。」

鈴木は浜松の十字の園で10年、御殿場で10年、伊豆高原で6年(発病しなければ10年は勤める予定であった)と、10年1期で、転々とする結果になった。彼が「謹呈」の短文で、自己の歩みを集約的に表現したかったのは、この一点にあったのではないか。

10年精魂傾けて育てた施設を、あっさり後進に託し自らは全く未知の地域に赴いて一から始める。併も再度である。これは民間社会事業家にとっては容易な事ではない。少なくとも私にはできなかった事である。鈴木は何故この様な行動を、自分の生きざまとして選んだのであろうか。私はそれを推察しようとする時、先ず頭に浮かぶのは次の聖書の箇所である。

「時に主はアブラハムに言われた。あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。・・・・・・アブラハムは主が言われたようにいで立った。」(創世記2章1節~4節)

「信仰によって、アブラハムは受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」(ヘブル人への手紙11章8節)

鈴木にとって、浜松も御殿場も、伊豆高原も、主が往けと命ぜられた約束の地であった。彼は、そこが遠くであっても未知であっても、主の召しであるが故に「行く先を知らないで出て行った」のである。 近代日本の社会事業にとって、眼前にある社会的問題、社会事業的課題を、己の召命として受け取った人は多い。福祉制度が整備されてきた今日、召命感は相対的に希薄になってきている。その中にあって、鈴木生二は、課題を召命として受けとり、召命として行動した1人であった。この小論は、鈴木をその様な人間像として描いて見た。

<「十字の園」ができるまで>

十字の園が創設されるまでの経過については、「十字の園老人ホームの出来るまで」(西村ミサ著、社会福祉法人十字の園、1988年発行、非売品)という小冊に詳しいので関心の深い方はそれを参照される事を希望して、ここでは最小限必要な事項を記してみる事にする。

1959年。浜松ディアコニッセ母の家(キリスト教婦人奉仕団体)に所属する、ハニ・ウォルフが休暇を利用して故国ドイツに帰り、「母の家」の人達に日本の老人の窮状を訴えて、1マルク献金を募った。当時の日本円で約600万円となり、これを基金として最初の建物(30床)を建設する事となった。

1960年。聖隷福祉事業団は理事会全員一致で、敷地2,400坪を無償で譲渡した。これを基本財産として「十字の園」が新しい法人として認可され、鈴木生二氏が理事長となった。

1961年。定員30床、生活保護法による養老施設として認可され、理事長鈴木が施設長となった。当時実際の仕事内容は、今日の特別養護老人ホームとしての事業が開始されたのである。

この様に、十字の園の設立経過は、先ずディアコニッセ・ハニ・ウェルフによって触発され、聖隷福祉事業団理事長、長谷川保が呼応し、鈴木生二に託されたという順序である。

浜松ディアコニッセ母の家理事会の要請として新事業の責任者の話が鈴木にもたらされた時、彼は躊躇していた。その辺りの心情を、次の様に語っている。

「その頃、聖隷厚生園(結核患者の後保護施設で、社会復帰に備えて農園芸、畜産、購買部、孔版部、時計部などの各種訓練部門をもっていた)の次長であった私に、専任職員として就任するようにとの要請があったが、決断のつかないまま日は流れた。そんなある日、ガラテヤ書1章14節以下のみことばが与えられた。『御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談せず、また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上がらず、アラビヤに出て行った。』この聖句によって私の心は定まり、未完成のままに聖隷厚生園の一切を実兄で主にある兄弟・先輩の鈴木唯男に委ね――1957年10月退職。

新法人設立準備のため、選任者としてその大任に就く。」(「夕暮れになっても光がある」7P)

かかる信仰的表現は、一般の方には理解が困難かも知れない。鈴木を一人の福祉事業家としてみるならば、彼はドイツ人ハニ・ウォルフが提議した、病気を持った日本の老人の窮状を自分に与えられた課題として受け止めたのである。彼は全身を傾けて、その答を出すため踏み出したのである。

<日本最初の特別養護老人ホームとは>

1989年、静岡県社会福祉協議会は、「静岡県社会福祉の歩み」を発刊した。これは850頁の大著で、内容的にも信頼のおける画期的なものである。その中で十字の園は、次の様に記述されている。

「昭和30年代に入って本県の養護老人ホームのなかでも、要介護老人が何%かみられるようになり、さらに一方では、老齢化が進む過程で在宅寝たきり老人介護のための家族負担の増大が問題となってきた。このようなときに、本県内の(福)十字の園がその当時の法人理事長であった鈴木生二を中心にした計画により、昭和36年1月20日我が国で最初の特別養護老人ホームの開設を行った。この老人ホーム誕生の陰には、のちにその施設の寮母になった浜松ディアコニッセ母の家の『ハニーウォルフ』姉妹が故国ドイツのキリスト教信徒に日本の老人の窮状を訴えて寄付金を募ったエピソードもあった。『十字の園』は、昭和38年老人福祉法の制定により正式に特別養護老人ホームとなったが、それまでの間は、経営が難しく、国に特別基準の設定申請をして職員の増員を認めてもらいながら法人の極めて苦しい財政事情の中で運営されてきたものである。」(406P)

わが国最初の特別養護老人ホームとの見解は、中央でも認識されている。その一例を挙げてみよう。

「生活保護法の時代、既に主としてねたきり老人を対象とする養老施設が創設されていた。静岡県の十字の園である。これは、老人福祉法の特別養護老人ホームの原型として、記憶されるべきものである。」と記している。更に当時の養老施設においては、急速に臥起やそれに準ずる入居者が多くなっていることを指摘し、こう言っている。

「しかし歴史の古い施設においては『虚弱なる者、病床に罹り静養を要する者』の割合が多くなり、その割合が30~40%を越えるものも少なくなかった。こうした中にあって、ねたきりの老人だけを対象とする養老施設が生まれた。それは、昭和36年に設置された十字の園(当初定員30人、現在120人)である。これは西ドイツのディアコニッセ、ハニ・ウォルフらが首唱し、ヨーロッパのナーシングホームを念頭に置きながら設立されたものである。」(この種の見解は「講座日本の老人Ⅱ老人の福祉と社会保障」岡村重夫、三浦文夫編など幾つかに見られる)

「わが国最初の特別養護老人ホーム」という意識は、勿論当事者である法人、施設職員にも大いにあったと思う。それは、光栄であり、自負であり、誇りであり、責任でもあったであろう。一部の理事はこのことを、事あるごとに語り「日本ではじめての特別養護老人ホーム」として喧伝した。

鈴木もそれを口にしなかったわけではない。併し以外に口は重かった。ある日私は、「われわれのような仕事に宇治川の先陣争いのような意識は如何なものか」と、彼に問うたことがあった。その時鈴木は「同感だ。歴史の長い先輩施設が、すでに大勢の病床にあるご老人の面倒を見てて下さっていた。それまでは何んにもなくて、突然われわれが始めた如き表現は、先輩に失礼だし事実でもない。十字の園の出現に意味があるとしたら、寝たきり老人の施設というものを、課題として、全面的に100%、正面から受け止めた事であったろう」と、語ってくれた。

できれば避けたい課題を、重荷ゆえに受けとめようと考える彼の召命感が、滲みでている言葉として聞いた。

<「細江十字の園」から「御殿場十字の園」へ>

1961年1月20日開園した十字の園は、翌21日から入園が始まった。次々と入所してくる老人を待ちうけるスタッフは、当時の聖隷福祉事業団、その精神的母体となっていた遠州三方原教会から選びぬかれた、ベストと言って過言でないメンバーであった。 浜松ディアコニッセ母の家からハニ・ウォルフ以下7名の姉妹。聖隷からは綿鍋義典以下4名が加わった。総勢11名、十分な準備の期間を持ち、圧倒的な祈りに支えられた船出であった。併し創始者の苦心は、統べての福祉事業に共通のものとは言ううものの、並大抵ではなかった。

鈴木は開設の日を、こう回想している。

「第一日目は4人のおとしよりを迎えた。1人はIさんで、背丈は1メートル51センチあるかなしかで、全盲、頭はきれいに禿げあがり、白い口ひげがよく似合う。福祉事務所のワーカーに付き添われて玄関に突っ立っている姿に驚いた。一見して手造りと分かるカバンらしきものを肩から斜めにかけ、生活必需品のすべてをつりさげている。ワーカーは私に耳うちした。Iさんは浜松駅の待合室を住まいとしていたことと、全盲のために持ち合わせている衣服のすべてを身につけて必要品の一切をつりさげているのだ、と。分厚い小豆色のラシャのオーバーを着ている。迎えに出ていたハニ姉妹もびっくりして、小声で看護婦さんにささやいた。「蚤がいるから、全部脱がせて煮沸消毒をしましょう・・・・・・。(中略)もう1人はKさんというおじいさん。この方の障害並びの病名は精神分裂病と坐骨神経痛。入園前の住まいは墓場の片隅に小屋を建てて暮らしていた。近所の子供たちに石をぶつけられたり、村人からは村八分にされ、まともな扱いはされていなかった。(中略)3人目のTさんは、結核症の回復者で甥の世話になっていた。デリケートな方で、自己判断をして自分を追いつめて苦しむといったタイプ。入園途中身投げ自殺するつもりで家を出たが、果たせず施設に着いてしまった。だが、ゆきとどいた看護にかえってとまどった。体よく殺される所と思い込んでいるらしく、まもなく湯茶も3度の食事も口にせず、自殺行為へと追い込んでいった。看護婦がたしなめても、食べる気配は全くみせないまま数日続いた。担当の民生委員等の援助によって、やっと平静にもどってくれた。」(「夕暮れになっても光がある」9P)

当時定員30床で出発したが、入所者の事情はここに紹介されている方々を超える深刻なものであった。併し鈴木は、入所初日の前掲、「3例から学んだことは、自ら選択した生活ではなかったにせよ、そうさせられた中にあっても身についた自由な生活からぬけ出ることのむずかしさ。入園も自ら選んだものでなく、他からおしつけられたものであれば、そこには不自由が生ずるだけ。よりよき生活の場であるべき施設も、死の待合室と化しかねない、ということであった。」と、考えを深めていた。

臥床しがちな老齢者を、いかに「厚く保護し管理するか」という施設本来の目的と、人間の死に至るまで本性である「主体的であり、自由を求める」姿を、いかに適切に両立させるかが、彼の、終生の課題となったのである。

経済的にも苦境にあったようだ。「生活保護法による保護施設として運営されていた1年間は、すべて職員の低給と母の家姉妹達の無報酬に近い奉仕によって、特別養護の実を積んだのであり、後に認められて特別養護老人ホーム法制定をみたのである。」(「十字の園老人ホームの出来るまで」32P)という記述は、昔の苦労話でなく、そのまま事実として受けとってよい。

併し鈴木はめげなかった。僅か2年後には定員50床に増築し、3年後、特別養護老人ホームとして正式に認可された機会に、定員100人に増設した。倍に倍にとの急進展である。

またこの時、私の志を受け入れ(重傷障害児施設の開設)、十字の園に障害児施設の計画を加えている。鈴木の先見で、1966年重度精神薄弱児施設小羊学園が、順調に発足できた。

ようやく苦心の創設期が終わり、全般的な平穏さが感じられてきた頃、鈴木は突如として、御殿場に赴いて新しく特養を始めたと決意を表明した。1969年7月14日の理事会議事録にはこの様に残っている。

「一、特別養護老人ホーム十字の園御殿場分園(假称)新設の件

議長鈴木生二は開会を宣言、先ず特別養護老人ホームを御殿場に新設する件上程。議長による経過報告。本年1月御殿場教会長老会が協会総会に上程、満場一致で可決されて以来小委員会を設け協議を重ねてきた結果、敷地の候補地があげられ、7月7日、土地所有者・御殿場福祉事務所長等20名が施設見学に来園、説明会を持ったこと。その後数日たってから土地所有者の了解がついたことの連絡を受けたこと等を報告する。各理事より十字の園十周年記念事業の一つとしてぜひ実現する様、推進されたいと全員一致でこの案は賛成可決された。」

御殿場市が資金を用意して招致したいという事ではない。土地所有者も借地希望に同意するというにすぎない。地域の「やって下されば有り難い」という程度の了解で、一切を法人事業としてこれから取り組まねばならないという。誰が行ってやるのかとの質問に、鈴木は「私が参ります」と、言葉少なに語った。理事会は、しばらく沈黙が続いた。

鈴木は日本基督教団御殿場教会が、教会の奉仕の業として、特別養護老人ホームを求めた事に、深い感銘を受けていた。教会の祈りを鈴木は自分の召命として感じたのである。と同時に、細江十字の園の発足が、ハニ・ウォルフと長谷川保とのねんごろなお膳立てがあり、それを継承した経過に心の残るものがあったのではないか。全く新しい土地で、自分のオリジナルな仕事を展開してみたい。当時53歳の鈴木にとって、当然すぎる志であったかもしれない。

1971年、細江十字の園の施設を、綿鍋義典に託し、「信仰によって受け継ぐべき地」に出立した。

<そして「伊豆高原十字の園」へ>

御殿場十字の園での10年間は、鈴木が特別養護老人ホームの先達として、最も充実した働きをなし得た期間であった。1970年代、特養は全国的に急増したが、静岡県内でもこの期間に22ヵ所もの施設が新発足している。鈴木の豊かな経験は、御殿場での実践を通し、各方面に少なからず指針を与える結果となった。ただ口八丁手八丁とはいかず、相変わらず口は重く、私などは折角の実績をと、傍らからやきもきしたものである。

伊豆高原十字の園の構想が発表されたのは1978年9月の理事会であった。鈴木がこれに引き込まれて行くには、二つのファクターがあった。一つは、満江ちよ(東洋福音伝道団大仁教会会員、浜名湖エデンの園住)が、2千万円を献金し、伝道団がその使い道として鈴木に相談を持ってきていた。

もう一つは、当時伊豆高原で建設中の日本老人福祉財団ゆうゆうの里の敷地の一部を、無償貸与してよいという話が出てきたことであった。鈴木の心は不思議に動いていた。新しい地で、新しいスタッフと新しい気持ちでやり直してみたい。それは若々しい、衝動といってよい欲求であった。

平井章は、伊豆高原十字の園の職員オリエンテーションで、鈴木が最初に言った言葉を印象深く覚えている。 「私はここで、過去20年間やってきたこと、20年積み重ねてきたことを、そのままここで継続したいとは思いません。皆さん新しい人と一緒に、新しい心で取り組みたいのです。私も一からやり直すつもりで、皆さんと一緒にご老人の処遇を考え、ここで完成品をつくりたいのです」

鈴木は自分の年齢を考え、この場所で、正に完成を期したいと、情熱を燃やしていたようである。10周年、20周年記念に新しい施設建設を計画し、自らそこに赴いて新しい闘いを挑む彼の姿勢は、「安住するな」「初心に還れ」と呼びかけているようであった。 御殿場十字の園を託された森本節夫は、前園長に教えられることの多かったことを語り、「その第一は、なんと言っても主イエス・キリストに聞く、主イエスに従うという姿勢を教えられた事であります。」(機関紙御殿場十字の園63年12月1日号)と言っている。福祉事業家の進退として、不可解の残る鈴木の行動も、神に聞き、神に従う召命と見るとき、一切の疑問も消去する。

<理事長として>

「かれは寡黙で口数の少ない、心底でなにを考えているか分からない人である。眼を見れば、澄んでいて不信を与えない。喜怒哀楽の感情を顔に表さないが、穏やかで包容力の大きい温容さが体に溢れていた。」(前掲機関紙)牧師であり十字の園の理事である西村一之の言葉である。短にして妙を得た人物評であろう。

鈴木は初代理事長として、逝去直前までその職にあった。彼は理事会においても、日常の業務と同様、極めて寡黙な人であった。自分からは語らず、意見の熟するのを待って判断する、しばしば受け身の立場を選ぶ事が多かった。そのため不明瞭、決断の遅延を批判される事もあったが、結論が出ればゆるぎない決心で実行した。各施設が行う事業に対しては、圧倒的な信頼と、安心しきった任せきりは、度量の豊かさを感じさせた。特に同一法人内で障害者部門を担当した私には、終始完全な自由裁量を保証してくれた。 また法人や施設を私物化せず、また義弟である私に対して、必要に応じて理事の辞任を要望している。それは極めてあっさりとしたものであった。

<夕暮れになって>

鈴木は1985年2月10日、浜松十字の園で行われた理事会の帰途、電車の中で彼は急に眼前に白光を感じ、足がもつれ、言語の不自由に気がついた。知らせで急遽伊豆高原駅まで迎えに出た時、辺りは暗く、氷雨には珍しく激しい雨足になっていた。 翌日、聖隷浜松病院に入院、脳腫瘍と診断された。後日、脳手術が行われたが、腫瘍の部位が悪く、目的を達せず未了に終わった。4ヵ月後に退院、伊豆高原に戻ったが、翌年4月園長を辞任した。

浜松十字の園に戻り、理事長専任として過ごした87年秋頃までの間は、不思議に小康を保っていた。共に働いてきた妻と、初めて経験する晩秋の静謐であった。この間に山口市で行われた老人福祉施設全国大会で、表彰を受けるため夫妻で旅行する事ができた。この小論の当初に掲げた「夕暮れになっても光がある」を発行した。また私に命じて、障害者施設部門の分離独立を達成させた。

11月24日、不自由な症状が次第に進行するので、聖隷三方原病院に改めて入院した。以後10ヵ月間妻に看取られながら病院生活を送った。そして1988年9月17日未明、静かに天に召された。医師が終焉を告げた時、ベットのかたわらにいた母の家の市川姉妹が気を失って崩れた。私はその姿に、鈴木の十字の園における重みを象徴的に見る思いがした。

(山浦俊治 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )