File15 鈴木 大隆 氏 Tairyu Suzuki

プロフィール
遠江救護院創設者〜県内初の養護施設〜

初の養護施設

初めて遠江救護院を知ったのは、昭和49年、日本社会事業年鑑の復刻版が出版され、手許に置いて見る事ができるようになった時である。それによると(大正9年版)、育児事業の名簿の中には、静岡県には三つの施設があったと記されている。
富士育児院(明治36年設立)、静岡ホーム(明治37年設立)、そして遠江救護院(明治32年9月設立)である。前二者は誰もが知るとこであるが、遠江救護院については、その所在が、引佐郡井伊谷村井伊谷という私にとってはすぐ隣接地(現引佐町)であるにも拘わらず、全く知らなかった事を、知ったのである。併も設立が明治32年となると、県内では養護施設の最初のものではないか。私はその折、不明を恥じるとともに大いに関心を持ったのである。

この育児院は、浜松市成子町大厳寺に位置したが、遠江仏教会の賛助にもかかわらず経済的には極めて苦しかった。一時は遠州地区で喜捨金千円を集めたりしたが、継続的なものにならなかったようである。明治43年の秋季には、男子14人、女子25人の在院児を数えたが、ここで経営上「進退谷り」という事になった。
その多くの里子や養子、年期奉公等に送り出す努力をした結果、8人の子どもが残った。

面接取材より

大隆は明治14年生れで、愛知県知多郡阿久比町の興昌寺から出て、明治34年、細江町普門院に移り、38年に正泉寺の住職となった。組織を立て直した「遠江救護院」の事業を引き受け、8人の子どもを正泉寺に引き取った大隆の人柄とその業績について、5人の関係者に語って貰おうと思う。

北島 あさ

大隆の妻、鈴木やうの姪にあたり、救護院を初期から知っている人である。

「やうの兄が私の父である。私は父母を早く亡くしたので、15歳上のこの叔母を母の様に慕っていた。大隆は青年僧らしい志に燃えた人で、いかにもおっさまらしい懇ろな方であった。とてもハンサムで背も高く、姿の綺麗な人で、叔母はその志に惹かれて結婚したと思う。〔やうは西ヶ崎の北嶋家の出身で明治21年頃の生れである。筆者補足註〕
夫妻には子供がなかったので、叔母は育児院の子どもたちを大変に可愛がっていた。併し、本堂しかない貧乏寺に子どもたちを迎え、一挙に大家族になった当初の驚きを、叔母からよく聞かされた。叔母は随分苦労したと思う。
叔父も経営費をうるために年中苦労していた。寺院の周りにある畑や山林を耕して、副食物の自足を考えたようだ。米と現金収入をうるために「せんべい」を焼いて販売した。叔父はとても器用な人で、自分で種々なものを工夫した。せんべい焼の道具、煉瓦造りのかまど、売り歩くためのブリキ製の罐など、叔父の工夫になるものが多かった。
浜松から出ている軽便鉄道の終点が気賀町にあったが、そこに正泉寺の末寺である長徳寺があった。そこまで運ばれてくる新聞を村内に配達する仕事もやった。叔母が朝暗いうちから子どもたちの先頭に立ってやっていた。松葉煙草〔松葉を蒸して揃えて巻煙草状にしたもの〕を作って専売法違反に問われた事もあった。大勢の子どもたちを養うため、いろんな工夫をし、苦労をしていた。
自分の記憶では、常に5、6人の子どもが家族舎〔大正3年宗門の助成金500円で建築された2階建、上下とも6畳8畳〕に住んでいたと思う。
村の人や近辺の人々は必ずしも叔父の仕事を理解していたとは思われない。叔父は仏教的な慈悲心からこの仕事を引き受け、叔母はそれを懸命に支えていた。叔母が喉頭結核になって病床にあった時、成人した子どもたちが最後まで看取っていた事を思うと、育児院で育った子どもたちは、それなりにこの夫妻に感謝していたのではないか。〔やう昭和18年12月 55歳で死亡〕
叔父は磐田の十輪寺で亡くなったが〔昭和24年 69歳〕、丁度私が訪ねていた時で、前の晩まで何事もなかったのに、翌朝死んでいたという不思議で解せない突然の死に方であった。」

福井 清

正泉寺檀家総代を37年務めている。元細江町町議。父徳次郎も総代を40年務め、父子2代に渡り正泉寺運営に参画した。

「私の父徳次郎が死んだ時、大隆和尚は泣いて焼香ができなかった。私が入隊し、一期の検閲後帰宅した折、寺の和尚を訪ねた。和尚は「よう来た」と心から迎え、二階で長時間懇切な話をしてくれた。大隆和尚の優しい人柄と立派な人格は忘れ難いものがある。今も心から偉い人だと思っている。他人から依頼されれば困っていても引き受けてしまい、請われればなんでも持って行けという広い心の人だった。
同時になかなかのやり手でもあり、四季鳥(大型のアヒルで卵が大きかった)や豚を飼育したり、蜜柑を植えたり、労力的な頼まれ仕事を引き受けたり、松葉煙草やせんべい焼など、現金収入になる仕事に積極的に手を染めた。併し、育児院の仕事のために、檀家(約60戸)に喜捨を求める事はなかった。庫裡の建築や本堂の改築には、講を起して檀家に金を出させたが、自分の事業には全く要求しなかった。そのため檀家は自分達の寺で行われている事業にも拘わらず、比較的無関心であった。
和尚は宗門や仏教会のためにも良い働きをしていて、特に愛知県など西の方に影響力を持っていた。〔大正4年静岡県曹洞宗第15宗務所長、大正8年遠州積善会引佐支部長になっている。〕
昭和10年頃事業は自然廃院になって行くが、これは子どもたちがそれぞれ成人して出て行ったためであり、新しい幼児の受け入れをしないで他の施設に託したためである。」

影山 長十

現引佐町町議。井伊谷村で育ち、少年時代育児院を近くに見ていた。

「自分の記憶では昭和5年頃に6人程の子どもがいたと思う。和尚の夫人を子どもたちはお母さんと呼んでいた。それで近所の子どもまでがそう呼んでいた。大変立派な人だったと感じていた。自分たちの眼から見ると、薪割り、せんべい売り、養鶏、托鉢など、育児院の子どもたちの仕事は非常に厳しいもので、冬も足袋も穿かず、ひびわれ、あかぎれ、惨めで可哀想に思われた。」

松本 亭子

同じく井伊谷小学校で、救護院から来ていた坂本治と同級生であった。

「育児院の子どもは皆井伊谷小学校に来ていた。子どもを苛めてやれと言う声があった事を覚えている。この子らは自分達とは違った特殊な子ども、可哀想な子どもとして差別されていたと思う。
大正4年頃から坂本治君と同級生であったが、この人は気丈な子であった。井伊谷村はもともと貧しい村であったから、育児院の子どもの服装が特別貧しかったという印象はない。ただ坂本治君はいつも身に合わない、つんつるてんの着物を着ていた記憶がある。
育児院の子どもがブリキの箱を下げて、せんべいを売りにくると、家では必ず買ってやった。その時母は、育児院の子どもは親のない気の毒な子たちだから、大事にしてやらなければいけないと、私を諭してくれた。」

太田 米蔵

大正2年生。4歳の頃より遠江救護院で育ち、廃院、大隆夫妻の逝去をつぶさに立合ってきた人。

「自分がいた大正6年頃からずっと、常に17、8人はいたと思う。岡崎に鈴木福龍という人がいて、この人が救護院のために金を集めていた。〔三河地方の宗門の協力を得て、東岡崎に支部を置き義援金を募集しようとしていたが、はかばかしくなかった。〕
食事は大麦、粟、米少々のおかゆで、朝顔茶碗に7分目、それに朝は汁を椀に半分、昼は沢庵二切れに梅干し一つ、夜はいもや、南瓜、これが常態であった。いつも空腹だった。
供米と書いた茶封筒を持って托鉢に廻った。その袋に玄米を入れてくれる。村内は勿論、小野、伊目、油田、伊平、奥山など方々に出かけた。昼には行った先々で、かたい飯と濃い味噌汁をご馳走してもらうのが嬉しかった。
大隆師は現金収入を得るため種々な事を考えたが、松葉タバコで失敗すると、松葉エキス〔心臓、喘息に効くとの効能をのべた。今でいう栄養剤か?〕を作り瓶詰で販売した。これは3年程続いた。コーヒー豆の栽培もやった。子どもたちは、それらの仕事に係わった。
寒中でも単の着物一枚、足袋なし、薄い掛布団一枚で震えていた。本堂でお経を教えられた。読みが悪いと叱られ、10日程で暗誦に移る。般若心経、帰敬文など、小学校の時代に覚えさせられた。早朝の読経、10分間の坐禅、子どもには厳しい日課だった。
やう夫人は早朝4時頃起きて働いていた。絶対に分け隔てなく、実によく面倒を見てくれた。夫妻とも、決して手は出さず、口で徹底的に反省を求めた。叱りはするが、それは愛の鞭だった。辛い事が多く、正直嬉しい事は少なかった。(正月に2銭の小遣いを貰ったり、15粒の金米糖を貰ったりしたのが嬉しかった。)
大隆師は、単に孤児を大人に育てるのでなく、仏教的な意味の修行によって、将来立派に一人立ちできる人間をつくろうとしていたと思う。自分の事を考えても、どんな苦しい時があっても、子ども時代の修行を思って耐えてこれた。救護院での生活はその意味でも有難かったと思っている。大隆夫妻への尊敬と感謝の気持ちは、今生存している数名の救護院育ちの者にとって、共通のものと確信している。」

むすびとして

今手元の資料だけで大隆と遠江救護院を語るにしても、紙数があまりにも少なすぎた。正に点描で終るが、今回出合った巨島泰雄(引佐町役場住民福祉課長)は、引佐町史の近代編に取り上げたいといわれた。その成果を待ちたいと思う。

ともあれ鈴木大隆なる人物は、奥の深い、キャパシティーの大きい人物のようである。

明治末年から昭和10年まで、人権意識の低い時代とはいえ、まかり間違えば児童虐待と誤解されかねない修行的教育をあえて敢行した真意はなんにあったのであろうか。壮絶と云うべき経済的苦境との関連を考える時、深い同情と畏敬を禁じ得ない。
大隆の薫陶をうけた者のうち、長じて僧職についたものが数名あった事は、大隆の修業的育成の勝利の証であろう。
養子音海は次の如く言う。「とにかく苦労したようです。本当に面倒見のよい二人だった。晩年は随分疲れたようで少々不憫だった。」(保育を語る―静岡県保育史―昭和57年刊)

今日、無住の正泉寺の山門に立ち、家族舎や二人の墓前に佇むと、伝えられる事なく忘れ去られようとする大隆夫妻の事跡を、明らかにしようとする努力の空しさも感ずる。

世阿彌も「花傅書」の中で云う。「秘すれば花なり、秘せざれば花なるべからず」

(山浦 俊治 筆)

※ この文書は昭和60年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )