File01 中田 騄郎 氏 Rokurou Nakada

プロフィール
全国組織救護会創立者〜弁護士で日蓮信仰〜
明治後半の全国的な社会事業団体「救護会」の創立者である中田ろく郎は、明治15年4月8日、静岡県榛原郡勝間田村に生まれた。幼児にして神童といわれ、明治34年学費免除の優待生として東京法学院を卒業、弁護士の国家試験に合格したときは19歳のため年齢を秘して受験したという逸話がのこっている。静岡市で弁護士を開業した中田は軍人遺家族の救護活動をすすめる兼子彌総に共鳴、仲間の弁護士らをもさそい明治40年に社団法人救護会を設立した。

救護会のあらまし

廃兵及び軍人遺家族
そして貧窮民の救済事業を目的とする救護会

静岡市に事務所をおき、篤志家の寄贈による廃品を募集、その益金をもって事業をすすめ、たちまちほぼ全国に支部がおかれていく。明治41年に東京府支部がおかれ印刷授産所と無料診療所をはじめたのをかわぎりに、大正5年までには3府30県に支部がつくられた。各支部から年に20万から30万円の金が送金され、託児所母子保護施設・宿泊施設・授産施設などを各地に開設していき「救護会時報」を毎月発行、全国の保母等施設職員の連絡指導をもおこなったという。明治42年の大阪市の大火には100円、明治43年東京市水害には2千円、明治44年東京市浅草の大火には240円の救恤金をおくったという記録もある。県内では富士育児院に8年間で990円の補助、大阪第一保育園開設にあたっては650円の補助をしたとも記録がされている。兼子が案出した廃品回収を中田が法的に合理化して実施したことが成功の因であったが、次第に各県で真似するようになり支部も減少、昭和14年には岐阜、滋賀など7支部のみとなっている。

静岡での主な事業

大正8年の経済恐慌のとき静岡市の委託をうけ住吉町に「静岡託児所」を開設、施設長に中田の夫人雅子があたり、30人の乳幼児を保母5人で朝6時から夕6時まで、間食2回、保育料は生活水準に応じ1日3銭と10銭となっている。昭和20年の大空襲で焼失し廃止となる。

昭和22年6月、静岡市の戦災者収容施設有東寮の付帯施設として併置された「あけぼの保育園」の経営を市より受託、中田雅子が長となる。軍需産業の三菱重工業静岡工場の木造バラック建て工員寮を改修100名の保育室とする。現在は社会福祉法人扶桑会の経営で300名の保育所である。

大正10年、清水市に勤労者宿泊保護施設「清水自助館」を開設、昭和10年には母子収容施設「報恩寮」を昭和11年には失業者の授産場「慶福舎」を併設、自助館はあとで保育園に改め経営するも、いずれも昭和20年の清水大空襲で焼失して終わった。

中田騄郎の活動

中田は救護会の理事長として全国的規模で活躍するほか、静岡市議会議長、静岡県弁護士会長など歴任、昭和5年には武藤山冶のひきいる実業同志会の推せんで衆議院議員に当選している。戦後は愛の運動協議会長、戦争犠牲者対策協議会副会長、静霊奉賛会常任理事などの要職にあった。中田が救護会本部主任に起用、廃品募集部の指導にあたらせたのが牧野修二。のちに中田とわかれ救護会経営の東京武蔵野母子寮を独立させ長になった牧野は都同援、そして全社協の中心者として活躍するのである。中田は昭和16年藍綬褒章受章、昭和32年飾版の御下賜をうけ、同年8月75歳で逝去、従5位勲4等に叙せられる。中田の言に曰く「社会事業は独立自尊、資金を稼いで事業を投ずるもので他より援助をうけるものではいけない。相互扶助の精神で運営し、物心両面からの救済でなければならぬ。保障制度が必要になった根源をたやすのが人類のつとめである。」と。熱心な日蓮宗信者であった。

※ この文書は昭和56年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。 (永田 泰嶺 筆) 【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。)