File02 大野 篁二 氏 Kouji Oono

プロフィール
聖隷福祉事業団創立者〜農業協同組合にも力〜
今日の社会福祉法人聖隷福祉事業団は現会長の長谷川保をはじめ数多くの人々の献身によりはじめられたものであるが、その一人に大野篁二がいる。大野は明治23年8月30日福井県今立郡鯖江町下深江に生まれる。大阪外語学校を苦学して卒業後兵役につく。大正3年には貿易会社富士商会を大阪市に設立するも、両親が他界、妻を失い妹を亡くす悲運に感ずるところあり、精神的生活に入らんと決意、資材一切を店員に分与し行脚に立つ。京都の仏教大学の門をくぐり仏教研究をはじめるもあきたらず、自ら好む音楽と宗教の結合を試みんと思いたち楽器の生産地浜松に来往、日本楽器に入社する。大正12年浜松日本キリスト教会にて植松正久牧師より長谷川保らと共に受洗。同年東京にでて日本力行会に入り、内村鑑三の聖書講義を聴き東京神学社に学んだ。

聖隷の設立に献身

学問的なキリスト教にあきたらず愛知県猿投の「新しき農場」にうつりここで農業の知識と技術を習得、日本農村に福音を伝道せんとの使命感をもって大正14年浜松に再び来り、長谷川保と二人でつけた「聖なる者の奴隷となろう」との考えによる聖隷社農場を曳馬村に開き農耕に入り結核患者等をうけいれる。このころのことを同志の1人鈴木龍太郎は偲んで書く『猿投から浜松に帰った大野兄は私の貸家の1室に落ちついた。東京にいた長谷川さん山形さんらと「しもべの群」をつくり福音の独立的伝道のために経済的基盤とするためクリーニングの仕事を画策し、農村伝道のセンターとすべく土地を物色し深い思索の時を過ごした後、現在の住吉の荒れ果てた農場の茅屋に移った。私の所からもっていった古鍋と泥をこねてつくったへっついを使い、普通では想像もできない煮炊き生活をしながら、ライ患者があればこれをライ病院に移送し、放浪の狂人あればこれを自分の納屋にすまわせ、肉親から忌み嫌われる結核患者あれば自分の部屋にねかせ、といった人の真似られない行為を重ねてきた。時には月のきれいな晩、萩、桔梗の小唄など唄ってノドのよさで私たちを楽しませてくれたと思えば、時に「神様すまないが一寸横を向いて居て下さい」といいたい時が僕にもあるんだと正直に言う大野兄でした。大野兄が蒔いた種が芽生え育って今日立派な活動が行われているのをみて我が事のようにうれしく思う一人である。』

現在聖隷本部の横に篁二会館というのがあって5階建て、各種会合などに利用されている。

引揚者援護にも力

昭和12年から社会活動に身を入れ13年には浜松市会議員として当選、18年県農地調整指導員などの職につき20年5月満州国龍江省浜松村開拓団長として渡満する。終戦と共に開拓団員一般避難民を引率して引揚の指導にあたる。発疹チフスで重態となるなどの苦労をなめつつ内地帰還したのが昭和21年9月、引揚者の開拓地入植のため日夜東奔西走するのである。没後であるが昭和49年に時の大平外務大臣より引揚者帰国業務にあたり功績顕著であると表彰状がおくられている。

昭和23年浜松市高台農業組合を設立させ理事長となり24年は県厚生農業協同組合連合会副会長に選ばれ、遠州病院の復興に尽力する。そして同26年会議中に脳溢血で倒れる。26年6月18日静岡市厚生病院で永眠、61歳。

大野の言葉のなかに、次のような一語がある。『俺のための用事は1つもないよ、みんなよそからの用事ばかりだ。神様は聖書の中にも人間の頭の中にいるのでもないぞ。神様は問題をもった助けを必要とする人たちと手を握るその合い間にいらっしゃる。神様の御用に仕えて食えなかった者は一人もいないが自分の用事を追う奴は必ずゆきずまるよ。』仏教にもキリスト教にも通ずる語である。『相手を対象化してへだてをおくことをせず、自分のふところに抱擁してその苦患を共に苦しむという独特の稀有なる人間味の持主であった。』と聖隷顧問の鈴木利三郎は書いている。

※ この文書は昭和56年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(山浦 俊治 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。)