File32 志田 利 氏  Toru Shida

 

 

 

 

 

 

 

プロフィール
静岡県社会福祉士会 初代会長 ~ソーシャルワーカー 組織の先覚者~

1 県庁内での福祉啓発活動

志田利氏は、昭和9年山形県で出生、昭和31年日本社会事業短期大学卒業後、山形県社協に3年勤務した。母校の四年制大学昇格に伴い編入学し、昭和36年日本社会事業大学(1期生)卒業後、静岡県に入職した。県自治研修所での初任者研修(1ヶ月合宿)で、仲間に呼びかけ「三六(さぶろく)会」を結成した。以後年2回の例会と「文集さぶろく」を発行し、県庁内同志を通じ、福祉の情報発信に努められた。その後昭和54年、県民生部社会課社会係長に就任と同時に、部内に勉強グループ「明日の福祉を考える会」を発足させた。毎月1回の例会(時間外)にはゲストを招き討論、毎年文集を発行した。参加者にはその後人事異動で他の部局に移っても、この会で学んだ事により、「福祉思想の普及発展」に資する「ねらい」があった。後にこの会は人事課指定の「研究グル―プ」として奨励対象とされた。以上二つのグループの招集、司会や文集の編集発行等を志田氏が担当された。

 

2 「しずおか福祉セミナー実行委員会」の活動

昭和56年「国際障害者年」を契機に「ノーマライゼーション思想」の、一般社会への普及啓発が必要とされた。たまたま当時、日本社会事業大学では、地方の同窓会と協力し「地方学会」を開催する事となった。その為に「しずおか福祉セミナー実行委員会」をつくり、県社協の協力を得て「福祉シンポジウム」開催した。シンポジウムは2年継続開催したが、昭和57年度よりは志田氏等の日本社会事業大学同窓生からの提案があり、「静岡の福祉をつくった人々」の評伝を毎年3~4人ずつ選び、そのプロフィール集を出す事になった。以来10年間にわたり、県社協の協力を得て「先覚者シリーズ」が発行された。その中で取り上げられた先覚者31人の内、志田氏が7人(中田騄郎、山城多三郎、大野虎雄、渡辺鋭、金刺平作、小塩孫八、小田重義)について夫々執筆された。

3 県ソーシャルワーカー協会の創立と活動の推進役として

昭和58年、中央において日本ソーシャルワーカー協会が20年ぶりに再建されると同時に、中央の協会理事であった、山村三郎氏(天竜厚生会)等からの呼びかけにより、昭和59年に静岡県ソーシャルワーカー協会が設立された。その時、会則や事業活動要領等を県社協と協力しながら取りまとめたのが志田氏である。毎月第3土曜日、午後3時より、県総合社会福祉会館を会場に定例会開催とした。定例会には毎回ゲストとして、県内外より関係者(原則ボランティア)を招き、その人選や年1回発行の年報等の世話役も、主として志田氏が担当された。

特に平成16年4月、日本ソーシャルワーカー協会の年度総会と記念セミナーが静岡県の当番となり、グランシップで2日間開催された。大会テーマ「生きるソーシャルワークを目指して~福祉・医療・保健・司法との連携による実践の構築~」であり、第1日目の記念シンポジウムの司会役を、関連分野に幅広い知識を持つ志田氏が担当された。

 

4 静岡県社会福祉士会初代会長として

永年にわたり求められていた福祉の国家資格制度が、昭和63年「社会福祉士及び介護福祉士法」として施行され、その第1回社会福祉士国家試験が、平成元年実施されたが、その時静岡県児童課参事の志田氏は、合格率20%の難関を見事突破され合格された。当時行政職からの合格者は全国的にも珍しいと言われた。平成2年11月第1回社会福祉士研究集会が東京で開催され、全国180名の合格者の中より60余名が参集したが、その時の総合司会を志田氏が担当された。取り敢えず日本ソーシャルワーカー協会の中に「社会福祉士部会」が設けられたので、静岡県ソーシャルワーカー協会でも同様に「社会福祉士部会」が設けられたが、その中心的世話役を志田氏が担当された。

その後、平成5年1月中央において「日本社会福祉士会」が設立されると、併行して同年5月15日「静岡県社会福祉士会(会員38人)」が設立され、志田氏が初代会長に就任された。また、志田氏は中央協会でも地方ブロック代表の理事を担当していたので積極的に発言された。平成6年1月静岡県が当番となり熱海市で「第2回日本社会福祉士全国大会」を開催し、静岡県の力量を全国に示された。特に静岡県社会福祉士会は会員加入率が高く、その活動内容も「福祉なんでも相談会」など、静岡県独自の活動をいち早く展開したので、中央でも取り上げられ全国に普及されていった。

平成7年度より県社会福祉士会は、毎年「社会福祉学会」を、県内の医療・保健・介護・司法等の各分野にも幅広く呼び掛けて実施した。その第1回学会で志田氏は次のような挨拶をしている。

「福祉の仕事は教育・医療と並んで人間を相手にする職業として、社会的にも重要な役割を果たさなければならない。今後年々増加する国家資格者を、専門職集団として他の専門職(医療・保健・看護・司法等)とも連携する体制を確立し、協議する場としたい。」

なお、志田氏は平成12年5月迄会長を務めている。

 

5 福祉思想の啓発、組織づくりの先導者として

志田氏は県職員として色々な勉強会組織(三六会・明日の福祉を考える会・県ソーシャルワーカー協会等)を立ち上げた事について後に次のように語っている。『とかく福祉の人間は、与えられた職務の「ワク」の中だけで物を見て行動するきらいがある。「己(おのれ)」の小さな頭脳には、外部から多角的な物の見方や、複眼的な視点をもたらしてくれる勉強の場が必要だ。多くの人々との交流を通じて、一層仕事に対する「やる気」をかきたてられ、それが活動の「エネルギー源」にもなった。』

また、志田氏と接した多くの人々からは、「いつの時も志田さんからは、ほめ言葉、ねぎらい、励ましの言葉をかけられた。それにより常に前向きに物事を捉え行動するようになった」と言う。

また、志田氏は文才豊かで、何時も「メモ」をとり、ジャーナリストのように役所言葉でない分かり易い言葉を発信されていた。また、県内だけでなく中央の福祉刊行物(月刊福祉や福祉新聞等)にも、時折評論や書評等を寄稿されている。中でも志田氏自身が昭和30年代に山形県社協に勤務した経験から、全社協の「月刊福祉(昭和54年6月号)に「社協マンに期待する」を寄稿し、次のように述べている。

「先人を大事にする、先人達の苦難のあとを、活動の流れを、その背景にあるものを含めて記録し、教訓として学びとり、己の血としていく、そんな試みも歴史的財産になるのでは」と注文をつけている。

平成11年より志田氏は身延山大学の福祉学科教授として赴任した。その学内研究紀要に発表したものをまとめて「仏教と社会福祉」の1冊として、京都の出版社より発行した。その内容に対しては平成17年度日本社会事業大学、社会福祉学会賞(文献賞)の対象とされた。

 

6 「福祉のおしどり夫婦」として   

志田氏は日本社会事業大学卒業後、同じ大学1期後輩の後藤洋子氏(山形県出身)と結婚している。洋子夫人も静岡県職員として永年にわたり県立病院医療社会事業部(医療ソーシャルワーカーとして)に勤務した。県退職後に洋子夫人は母校の大学院に進学し、社会福祉士資格を取得している。志田氏は生前山形県出身者でありながら静岡県に赴任した心の内を次のように述べている。

「富士山を望むことの出来るのを故郷(山形)の人々から、うらやましがられている。静岡県民の福祉の為に、同じ福祉の仕事に係る妻(洋子)と共に助け合って、灰になるまでの時間を大事に生きていきたい。」

 

7 病を抱えながら最後まで活動

志田氏は生前自分の健康状態のことを周囲の人間に殆ど語ることがなかった。平成11年以降にペースメーカーの装着(身障1級)となり、その後に「人工透析」をも受けられるようになった。後で思えば相当に苦しい体調の時が多かったと思われるのに「福祉にかける想い」の方が先に立ち活動を続けられた。そして平成19年2月27日急逝(73歳)の報は関係者にとって衝撃であった。その通夜と告別式(静岡市内蓮長寺)には身延山大本山より高僧も来静され、県内外より多くの会葬者があった。また、洋子夫人もペースメーカーをつけられ、夫君の亡くなられたその後を引き継ぎ、身延山大学福祉学科講師として勤務した。その洋子夫人も平成26年9月(74歳)で逝去され夫の後を追った。

思えば大学卒業後、志田夫妻は共に遠く山形のふるさとから離れ、第2のふるさととして静岡県福祉の為に、その生涯を捧げられたのである。

 

 

静岡県ボランティア協会相談役

元静岡県西部民生事務所長     神田 均 氏 執筆

 

 

【参考資料】

1 「社会福祉に生きる」~民生行政とのかかわりの中で~ 志田利箸(平成5年8月)

2 県職OB、日本社会事業大学同窓生、県社会福祉士会関係者等からの提供資料