File07 山形 春人 氏 Haruto Yamagata

プロフィール
戦後の母子救済に生きた
太平洋戦争後、敗戦国日本の社会混乱は筆舌に尽くしがたいものでありました。誰もが自分だけが生きることに精一杯であり、多数の戦災孤児や戦災母子が生活の場を失い困難のどん底に陥って居りました。あの困難な時に、90世帯300人もの母子たちの生活を守り、子らを健全に育てるために、弁天島同胞寮(恩賜財団同胞援護会として出発・後に社会福祉法人となる。)の寮長として全力を尽くした山形春人は、わずか3,4年後には、中央児童福祉審議会の委員となり、又県の授産事業連盟理事長として目覚ましい活躍をしましたが、残念ながら、過労がもとでわずか42歳で生涯を閉じてしまいました。

 私はこの義叔父のすすめもあって昭和23年日本社会事業専門学校(現日本社会事業大学)に進みましたが、昭和26年学校を卒業して弁天島同胞寮に就職したその年の秋に山形は倒れ、翌年2月に召天してしまいました。私にとって、全く残念でならない事でしたが、私は在学中も休暇は必ず同胞寮に帰って過ごし居りましたので、山形春人の生き方(ざま)については、いくつか思い出があります。病弱で海辺の気候にはあわない妻を三方原に残して単身で母子寮の一室で頑張った山形は、よく大声で賛美歌を歌いながら、母子寮の大廊下の洗面所で洗濯をして居りました。出張から帰って、如何にもつかれた様子の時には、よく併設の保育所へ行きました。子供のない彼でしたが、彼ほど子供を愛した人も少ないと思います。膝の中にも、肩にも頭にも鈴なりのようになった保育所の子供たちに囲まれて、彼は仕事の疲れをいやし、本当に優しい笑顔を見せて居りました。

最近、静岡県社会福祉協議会が、昭和24年4月(第1号)以来の機関紙を立派に製本して「社会福祉しずおか」として発行して下さいましたが、その中で昭和25年1月の新春特別対談は、山形が司会をし、県議会の民生労働委員長さんと、県の民生部長さんとが、民生事業について語って居られます。又、昭和26年3月号には、静岡県社会福祉協議会創立総会の記録が載っておりますが、山形が、発起人会を代表して会則の説明をして居ります。こうして昭和21年から社会福祉事業に直接関係し、わずかの間に、いく多の活躍をした山形の死亡通知が昭和27年3月号にのっているのは誠に残念なことです。

中央児童福祉審議会でも、高島厳先生らが「山形さんの意見には、体験からくる迫力があるからかなわない」等と言われたと聞いた事がありますが、こんな山形春人が、どんな生い立ちであったかは、聖隷福祉事業団会長長谷川保が小説風に書いた聖隷の歴史「夜も昼のように輝く」の一部から知る事が出来ます。その部分を抜粋転載いたします。

聖隷社創業……クリーニング店開店

【3月末というのに、たいへんに遅い春で、桜の蕾もようやくふくらみかけたところである。24歳になった長谷川保は、11年上の大野篁二、五つ年下の山形春人といっしょに、聖隷社クリーニング店を開店するためアイロン台を造ったり、物干し場をつくったり、きょうも朝から多忙であった。保は、6年前に県立浜松商業学校を卒業して、東京の小石川町にある日本力行会海外学校に入会したのであったが、そこで山形春人と知り合ったのである。

日本力行会は、明治末年に牧師島貫兵太夫によって創設された全寮制の塾で、苦学生や農民の息子でブラジルやメキシコへ渡航して一旗挙げようという青年を、常に50人くらい職員とともに宿泊させて教育訓練をしていた。青年たちの中にはアメリカに密航して勉学する者もいた。海外行くものは、世界人にならなければいけないというので、世界的宗教であるキリスト教を教育の根本としていた。学生たちに『できない』ということを絶対に言わせないために、よくわずかばかりの干し飯(ほしいい)をもたせて無銭旅行をさせた。夏休みや冬休みには、区役所の徹水夫やどぶさらい人夫をさせたり、駒込郵便局の郵便配達夫をさせて、その得た賃金を集めて巡回図書館をつくり、ブラジルの奥地に植民している人に送ったりして、勤労と博愛の精神を実際に養わせていた。……

山形春人は岩手県水沢の旧家である造り酒屋に生まれたが、6歳の時に家が破産して、父親は樺太に出稼ぎに行き、そこで女ができてそのまま居ついてしまった。結局母親と弟の正人と3人が捨てられてしまい、幼時から3度の食事にも事欠いて、しばしば他家のごみ箱をあさって飢えをしのいだのだという。小学校を4年で退学し、東京の洗濯屋に小僧にやらされて苦労していたが、少年ながらも外国へ行って成功して家を再興しようと志を立て、力行会に来て保と友達になった。】(P.10,11 人名は実名に改めました。以下同じ。)

以上のように山形も聖隷事業団の創始者の1人と考えられますが、彼は、昭和20年空襲で焼け出されるまで、浜松市高松町の聖隷社クリーニング店を経営しつつ、聖隷事業団への援助を両面にわたって続けたのでした。そして戦後前述の弁天島同胞寮の責任をもつ事となったのです。この時のようすも「夜も昼のように輝く」から抜粋します。

弁天島同胞寮開設

生活保護法が成立したので、保は直ちにこれを実施に移して難民を救うことに着手した。

まず戦争の最大の犠牲者である母子世帯を救わなければならぬ。保は国会の合い間に静岡県庁に行き、厚生課長に相談して、浜名湖畔弁天島の旧中島航空機株式会社の寮を全部払い下げて、母子ホーム弁天島同胞寮を設立することにした。保は聖隷保護農園の職員中から最も有能な者を選抜して、職員組織を構成した。寮長に義弟の山形春人を、寮母には松尾総婦長、寺田とし子を、炊事長に小椋栄養士を、授産工場長に浜松地方における最古参の社会民主主義者、鈴木貞一を、農場長に伊藤和彦を、児童指導員に岡崎牧師を、会計事務主任に静岡県庁から小杉良平事務官を選任した。山形寮長は幼児から父に捨てられ弟とともに他家のごみ箱をあさったこともある苦労人、松尾寮母長は佐賀伊万里の貴族院議員の娘として育ち、長じて武者小路実篤の新しき村に投じた良家育ちのインテリ看護婦長、この組み合わせで、敗戦の最大の犠牲者である乳幼児をすくすく育て挙げる環境を作ろう。児童が立派に育てば母親は救われる。国から公布される生活援助金だけでは、インフレ下では食料費、生活費は必ず不足するであろうから、授産場で母親たちに稼がせ、広大な敷地を農場化して食糧の補給をし、母親たちを力いっぱい働かせるために保育所を設け、食いものの恨みは恐ろしいから共同炊事をすることにした。

昭和21年12月25日、準備は整っていよいよ弁天島同胞寮開園の日である。寒いけれども空は晴れ上がり、太陽は中天に輝いている。保は、不幸な母子を迎えるために、前夜国会から帰ってきていた。

最初に母に手をひかれて2人の子が玄関に来た。若き母は北鮮からの引き揚げ者で、顔に鍋墨を塗り、頭髪はざんぎりの男装で、引き揚げ途中で1人の子どもを死なせ、ぼろをまとって、身も心も憔悴しきっている。次に入ってきた母と子は、この寒空に汚れきった単衣のぼろを着て、子どもたちは裸足のまま。母も子も垢だらけで、しらみと皮膚病でぽりぽり着物の上からひっかいている。戦災で父をなくした罹災者である。

つぎつぎと集まってくる母子の持っているものは、鍋と茶碗と箸だけを包んだ風呂敷包み1つだけ。母は痩せ果て、子らの腹部は栄養失調でふくれ、目ばかりぎらぎら光っている。保はこの母子たちの負わされた苦難がどんなものであったかを想い、声をあげて泣いた。この子どもたちが育つであろうか。育てあげなければならぬ。必ず育てあげるぞ。

法律に縛られるな

この母子たちを栄養失調から救うことに、まず、全力を傾けねばならぬ。『法律は人間が作ったものだ。すべての法律は人間のためにある。人間が生きるためには何でもしなければならぬ。法律に決して縛られるな。法律を超えよ。』

保は寮長山形春人に指示した。春人は浜松に行き、小型トラックを買ってきた。免許を取っている時間の余裕はない。春人は一日運転を練習をすると、その車を運転して浜名湖畔の村々に行き、米、麦、芋、豆、肉を買い集めてきた。村々にいるキリスト教青年の群れがこれを助けた。魚は地元舞坂町の漁師から買い入れた。しばしば警官に訊問されるのだが、どの市町村からも不幸な母子が同胞寮に来ているので、無免許運転闇食糧運搬の山形寮長を、警官たちは見逃してくれた。

母子たちは見る見る健康を回復していく。春人は寮の建物を改造して授産場を開設し、鼻緒造りや魚網織を始めた。日本楽器の川上社長はピアノの部品製造を出してくれた。保育所を開き、共同炊事を始め、学童のために学習指導を始めた。弁天島同胞寮は、厚生省が日本一の母子寮と称賛するものとなった。(P.232〜235)

私の手許に一冊のノートがあります。「転びつ起きつの日誌」と書かれた山形春人の遺品です。その一節を記します。

「人の偉大性がその衣装によらず、学位によらず、経歴によらず、只内にひそめる朽ちざる生命の能力、即ち愛の品性によるときに、その人ははじめて真実に偉大である。何んとなれば、斯くの如き人は最とも神に近いからである。」

追記

山形春人は、破産した父が兄と姉をつれて樺太へ出稼ぎに行く資金を得るため、9歳の時にNHKドラマの「おしん」のように、東京小石川の洗濯屋に20円で奉公に出されたとの事がわかりました。息子を捨て樺太へ行った父だったが、やがて無一物で引揚げて来た父を、春人は同胞寮の一室で面倒を見、その最後を看とったのでした。

※ この文書は昭和58年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(長谷川 力 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )