File04 山城 多三郎 氏 Tasaburou Yamashiro

プロフィール
金谷民生寮創立者
東海道のオアシス、無料宿泊所「金谷民生寮」を創立し生涯をその運営にかけた山城多三郎は明治33年10月9日、金谷町に大工の長男として生まれた。20歳の時失明し、本気になって自殺を考えたが、思いなおして信仰にはいり、丁度一年目の同じ日に医者に見放されていた目があいたという。仏のおかげで目があいたお礼に山城は一生を社会事業にうちこむ決心をする。家督を次男にゆずり、民家の一間を借り単身の町の貧民救済、失業者救済にのりだす。大正14年には町少年団を結成団長となり、仏教日曜学校にもかかわり、昭和4年には29歳の若さで方面委員となり、保護司を兼ねるなどの活動をすすめて生涯かわらなかった。

金谷民生寮をはじめる

昭和初期のルンペン華やかなりし頃に、東海道をおびただしい数の失業者が上下し、方面委員の山城はおしかける失業者に5銭ずつ給与した。敗戦後はさらに多くの戦災者、浮浪者、引揚者が巷にあふれるにおよび助産婦のせい夫人の協力をえて自宅を開放して昭和23年に無料宿泊所をはじめた。共同募金誕生とともにその配分金で戦争中の疎開者住宅の空いたのを買いもとめて今の民生寮とした。疲れきった浮浪者をまず風呂に入れ食事をさせ、そのままねかせ、翌朝相談にものる。たとえ薄い布団、粗末な食事でも、真の愛情で世話をするのを方針としてきた。川柳をよくする山城の作に”ほだされて唖の老婆もものを言い”というのがある。自ら浮浪者のいでたちで歩いて実態を調べたりもしたいという。「売名行為」とかげ口もで「周囲にとって物騒だからやめてくれ」と難じられたがやがては「町に犯罪がへったのは民生寮のおかげ」と支持されるまでになる。

家族ぐるみの運営

この民生寮の運営にあたっては一家をあげての無給での従事、まさに奉仕により家族ぐるみですすめてきたユニークなものである。生活保護法などができても該当せず国や県の補助はない。共同募金の配分、そして夫人の助産婦の収入、自らの講演料などをすべてつぎこんできての運営であった。泊る人の虱の駆除から、仕事の世話、生活相談、援助指導に自らあたり延25千人をこえる。慈、愛、無、空などの仏教の心とペスタロッチに傾倒していた山城は、器の大いなるをもとめず、心の大いなるをもとめて次の詩を口ずさみつづけてきた。

人をのみ渡し渡して己が身は 岸に上がらぬ渡し守りかな

内助の功

せい夫人との結婚は昭和6年12月。父の大工仕事を手伝う位で特定の収入のない社会事業に打ちこんでいる山城だけに共鳴してくれる人を見つけるのはどうかと心配だったが、せい夫人が自らすすんで「つたない自分ですが、助産婦の収入をあげて一家の経済をきりまわしますから」ということでめでたく祝言がとりおこなわれた――と山城の恩師浅井治平が書いている。「嬶に食わしてもらっていて、人助けとは生意気だ」「大工の手伝い位しかできないくせになにが失業救済だ」と嘲笑されながら「笑うものは笑え、私の仕事は仏様が知っている」とひたすら社会事業にうちこんできたかげには夫人の内助の功が大きく力になっている。この力故に1人の使用人もなしに、3人も宿泊者があれば一家総動員の大騒ぎでしかも一銭の代償をも本人からも公からももらわずにずっとつづけてこられたのである。

いま、この寮を長男(法幸)、次男(厚生)夫婦がついでいる。

晩年は町の老人クラブ和楽翁会を主宰するかたわら各団体から依頼をうけて人間の福祉と幸福を講演してまわるのである。昭和52年5月12日掛川市での講演中に演壇に倒れ不帰の客となる。77歳。正6位勲5等双光旭日章授与。法名寿限無量居士。

山城は寿限無と号して川柳をよくものにした。その作品にはユーモアと涙があふれている。

・一風呂に旅の虱と別れたり  ・浮浪者へ岩戸景気もなんのその  ・二度三度来ても憎めぬ老を泊め  ・誰れも来てあたれや路傍の焚火かな  ・海道に憩う蔭あり夏木立

※ この文書は昭和56年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(志田 利 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )