File24 山村 三郎 氏 Saburo Yamamura

プロフィール
天竜厚生会のはしら〜障がい者福祉の推進役〜
【静岡県歴史人物事典より】
1920(大正9)〜1988(昭和63)。社会福祉事業家。浜松市に生まれる。
浜松陸軍飛行学校在学中に応召。豊橋連隊に入隊。戦病のため陸軍病院から国立療養所天竜荘に入荘、回復後天竜荘職員となる。
戦後天竜荘荘長とともに結核回復者後保護指導所の建設に尽力。
1950年(昭和25)財団法人天竜厚生会発足により書記として勤務、1952年社会福祉法人天竜厚生会理事に就任、1966年同会事務局長に就任して関連諸施設の増改築に献身する。
1975年藍綬褒章、1987年正六位勲五等双口旭日章を受章。
1988年天竜厚生会研修センターに胸像が建立された。   (和田 孝子)

はじめに

静岡県の西部を南北に縦断して流れる天竜川の上流、浜北市と天竜市が境を接する小高い丘の上に、かつての国立結核療養所天竜荘(現、国立療養所天竜病院)と並んで赤松林の中にたくさんの近代的建物が点在する。
これら建物が静岡県はもとより日本を代表するような社会福祉法人、天竜厚生会の施設群である。
天竜厚生会は現在(昭和63年9月)、この場所に精神薄弱者更生施設4施設(定員計270人)、身体障害者関係施設5施設(定員計390人)救護施設1施設(定員100人)、特別養護老人ホーム2施設(定員計190人)、福祉関係者、ボランティア、海外からの研修者等を受け入れる研修センター、天竜厚生会診療所を、このほか富士宮市に特別養護老人ホーム白糸寮(定員110人)、地元浜北市、天竜市をはじめ近隣市町に10ヵ所の保育所を開設し運営に当たっている。
この大社会福祉法人を戦中は結核患者として病と闘って来た、天竜荘の中から育て上げた人たちの中心的人物、それが故山村三郎さんである。

生い立ち

山村三郎さんは、大正9年6月1日、浜名郡新津村倉松(現、浜松市倉松)の農家、山村周一郎さんの次男として生まれた。
卒生後まもなく母親が病気で亡くなられたため、尋常高等小学校を卒業するまでのほとんどは、祖父母の手で育てられたという。
昭和10年3月、地元新津尋常高等小学校高等科を卒業した山村さんは、しばらくは浜松市、名古屋市等で住み込みで働いていたが、一念発起、叔父さんのすすめで浜松市内の東洋紡績浜松工場に入社、寮生活をしながら県立浜松工業学校夜間部に通学した。
戦火が中国大陸で拡大し、日本はいよいよ戦時色を濃くしていった昭和15年、20才になった山村さんは、愛国の志に燃えて浜松の陸軍飛行学校に入校、整備の技術を学んでいたが、昭和17年召集を受けて豊橋の歩兵連隊に入隊する。
しかし入隊後まもなく、当時は業病と恐れられていた結核に冒され陸軍病院に入院、更に病気が病気であったため結核専門病院である国立療養所天竜荘に送られた。
ここでは、生前山村さん自身の話によれば「いく度も棺桶に片足を突っ込んだ」というように、文字通り死線ををさまようような闘病の連続であったようだ。
然しさしもの業病も、当時としては優れた医療と本人の若さや気力でこれを見事に克服して日本が敗戦の色をいよいよ濃くして行った昭和20年を迎える頃には体力もある程度回復し、軽い作業には就けるようになると、時節柄、療養所のはからいで京都の宇治山田市にあった、傷夷軍人等戦争で傷ついた人たちばかりが働く、東洋紡績ほまれ工場で指導員として働いたが、昭和20年8月、かつては患者として世話になっていた天竜荘からの要請で、今度は職員として病気の回復に向かっている人たちの社会復帰のためのトレーニングを担当することになった。
当時、結核は治療が困難で、山村さんのように回復出来たとしても、それまでには長い年月を必要とし、退院しても元の職場に復帰することがむずかしく、また長い闘病生活から体力的に重労働には就けないなど、この人たちには生きて行くことに不利な時代であった。
山村さんの社会的弱者に対する思いやりと、目的達成のため困難に立ち向かって行く姿勢は、こうした命がけの波乱万丈の青少年期の体験から形成されて行ったものと思われる。

天竜厚生会の設立

かつて結核患者として治療をうけ奇跡ともいえる回復をとげた天竜荘に、職業指導の職員として迎えられた山村さんは、自らの体験と指導員としての経験から療養所での社会復帰のための訓練や、技術の修得程度では回復者の社会自立はむずかしいと感じていた。
当時国立療養所天竜荘々長であった宍戸芳男先生も又その長い結核専門医としての経験の中から結核回復者の病後のケアーの重要性と、その対応の不十分さに歯痒さを感じていた一人であった。
宍戸博士は同じ考えをもつ山村さんらと語らって、この人たちの手で結核回復者の後保護施設をつくることをすすめ、自らも全面的な協力を約束した。
山村さんは同じような境遇の大石勝馬氏、沢口政次氏(いずれも故人)ら数人に呼びかけ、昭和22年結核回復者のコロニーをつくるための準備会を発足させた。
そして翌23年ささやかながら天竜荘の一隅に念願の共同生活施設を設立した。
こうして後保護施設は、天竜荘宍戸博士らの協力な後押しもあって実現をみたが、これの運営は今までより更に困難が待ち受けていた。
まず施設開設までは宍戸荘長らのはからいで天竜荘職員としてのあつかいをしてもらっていたが、施設開設とともにこれを返上、どこからの保障もない施設運営に取り組まなければならなかった。
山村さんらは空き地を利用して野菜を作り、豚を飼い、乳牛を飼育し、野菜やミルクなど売れるものは何でも売って生活費を稼いだ。
全国の主要都市は戦災で焼け野原と化し、大部分の生産手段を失った当時の日本は、国民のほとんどが飢えに苦しみ、失業者が街にあふれるといった状況の中で結核という難病を患い、回復したとは云え体力的にも技術的にもハンディを持ったこの人たちの生きるためのたたかいは想像以上であったに違いない。
この苦闘の中で山村さんは昭和22年同志大石さんの妹かなさんと結婚、同じ年同志や天竜荘の人たちに推されて、まだ浜北市になっていなかった浜名郡赤佐村の村会議員に立候補して当選、以降2期8年間を村会議員として村のため施設のため活躍をしてきた。
そして昭和25年には宍戸博士らの協力で天竜荘の付属機関建物の一部を無償で払い下げてもらい、これを移築して新しい建物をつくり、任意団体ながら天竜厚生会と名付け念願の結核回復者のコロニーづくりの拠点が出来上がり、同年早速、宍戸芳男氏を理事長とする財団法人天竜厚生会の認可を受け、ここに天竜厚生会が誕生した。

水を得た魚の活躍

こうして誕生した天竜厚生会は、宍戸天竜荘長の転勤により、新しい理事長に地元の資産家であり篤志家の内山竹蔵氏を迎え、昭和26年、社会福祉事業法の施行されたのを機に同法に基づく社会福祉法人の認可を受け、社会福祉法人天竜厚生会となった。
天竜厚生会は本県における社会福祉法人の草分け的存在として、生活保護法による更生施設「厚生寮」を昭和20年代の初期より開設、結核回復者の後保護施設として運営、逐次入所定員を拡大する一方で、診療所や救護施設を開設するなどして高まりつつあった社会のニーズに積極的に対応して来たが、昭和30年代に入り、抗生物質の発見、医療の進歩、社会体制の進展等により、後保護施設の使命の終焉と、今後の福祉ニーズは高齢者対策と障害者福祉にありと見てとった山村さんは、天竜厚生会の運営方針を従来の結核回復者のコロニーづくりから更に範囲を拡大して特別養護老人ホームの建設、厚生寮の身体障害者施設への転換をはじめ重度身体障害者施設の建設、精神薄弱関係施設の整備などに精力的な取り組みを見せて行った。
この間、かねてから天竜荘に申し入れてあった同荘敷地の払い下げがきまり、近隣民有地買収を含めて広大な敷地を持つようになり、昭和40年には2代目理事長内山竹蔵氏が没され一時動揺するが間もなく内山竹蔵氏の嗣子である内山信一氏を理事長に迎えることが出来、天竜厚生会は更に強固なものになった。
内山信一氏は県森林組合理事長、農林中央金庫理事などをつとめ、元県知事斉藤寿夫氏が現職時代、強力なブレーンと云われた人で文字どおり県政界、産業界における実力者である。
こうして対外的には内山信一氏という強力なバックを、内にあっては発足の同志であり、義兄でもあった大石勝馬氏をはじ千馬万場の士、表面に出ることなく施設の一職員として施設や家庭を守る夫人などに囲まれて山村さんは水を得た魚のように活躍の場を広めた。
近隣市町村と協力体制を強固なものとするため、これら市町村の求めに応じて保育所の設立、運営を引き受け、その数も10ヵ所の多きに及んでいる。

アイデアマン山村

これら施設の整備に際し重要な要素となっていたものに、通称山村方式又は天竜厚生会方式と呼ばれる、関係市町村への助成金要望方法がある。
施設関係者ならば誰でも知っている事柄であるが、施設建設に際しては国、県又は日本自転車振興会等民間助成団体からの補助制度があるが、これには建築面積、建築単価に上限があり、実行面積、実行単価とも現実とはかなり差が出て来るため、原則的には補助金4分の3、設置者負担4分の1となっているが、実際は補助金2分の1、設置者負担2分の1位の割合になってしまう事が多く、山村方式はこの差を埋めるため近隣市町村に人口や財政力等によって補助金要望額を定めたり、当該施設に入所者枠を定めることによって、補助金額をお願いしようというもので、県当局や、市町村の財務担当者にはあまり受けはよくなかったが、施設関係者にとっては有難い方式で、山村さんは関西方面でやっていた事を拝借しただけと言っていたが、県西部地区の民間施設の整備充実に大きな要素となった。
「施設経営といえども企業的理念を持っていなければならない、無駄を省いて合理化出来ることは合理化しなければ」というのが山村さんの施設運営に対する考えであった。
そんな考え方から生まれたものの一つに介助浴槽がある。当時施設で頻発した職員の腰痛を防ぎ、労力を省くため、自力で入浴出来ない人たちを機械、動力によって楽に入浴させる装置で、山村さんは自分のアイデアを地元の天野商事に提供して試作に試作を重ねつくりあげた。
その頃は入浴を機械力に頼るなど人間性に欠けるなどと言う人もあったが、今では特別養護老人ホームにとって欠くことの出来ない設備となっている。
同じような考えから出発したものにオムツの折りたたみ装置がある。
これも山村さんのアイデアを天野商事が製品化したもので、布オムツを使用している施設には重宝がられているようである。

業界のリーダーに

民間社会福祉事業の開拓者であった山村さんは当然の事ながら、本県社会福祉事業会のリーダーであった。
静岡県社会福祉審議会委員をはじめ、中央でも身体障害者福祉審議会委員、中央社会福祉審議会臨時委員など社会福祉関係委員にとどまらず、静岡県総合計画審議会委員、国土利用計画地方審議会委員など数えきれない程の委員を委嘱され、民間諸団体についても静岡県民間社会福祉事業施設連合会副会長、全国厚生事業協議会、全国救護施設協議会の常任理事など10指に余る団体の理事、監事等をつとめた。
中でも休止状態となっていた日本ソーシャルワーカー協会の再建に力を尽くし、昭和58年これを軌道に乗せ理事として活躍、静岡県ソーシャルワーカー協会を設立し自ら代表世話人として先頭になって組織固めに働いていた。
また一昨年秋、東京で世界の社会福祉関係者を集めて開催した、国際社会福祉会議を成功させるために活躍し、特にその地方会議を静岡県に設置し大成功をおさめるなどこういった方面にも常にリーダーとして積極的に活躍した。

その人柄

山村三郎さんは、やや小柄、色浅黒く、大きな声で精力的に働く人であったが、他人に警戒心を起こさせたり、近づきがたいと言った人ではなく、むしろ人づきあいの良い人であった。
自らは酒はほとんどやらなかったが、酒席は上手で常に山村さんあるところ笑いがあり、お酒もすすめ上手で、雰囲気づくりに意を用いている様子がうかがえた。
しかし自分の信念はしっかり持ち、自分の主張は簡単には変えない人でもあった。
山村さんには男1人、女3人の子供さんがいるが、長女、次女はそれぞれ天竜厚生会の職員と結婚、夫婦とも天竜厚生会の中でそれぞれが重要な役割をもって働いている。
長男も又、一時厚生省に勤めていたが、今は天竜厚生会に戻り施設職員として働いているなど、姉弟が力を合わせて父親の遺志を継いでいることは、これまた山村さんの徳のなせるところであろう。
山村さんの生きざまは、多くの人々に評価され、感謝され、50代の若さで厚生大臣表彰を受け、藍綬褒章を受章した。その死に当たっては、正六位、勲五等双光旭日章が授与された。当然のこととはいえご家族や関係者にとっては光栄なことと思う。
しかし何もかも先をいそぎすぎたような気がしてならない。(明和会理事長 八谷祐司)

※ この文書は昭和63年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(八谷 祐司 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )