File06 岩下 壮一 氏 Souichi Iwashita

プロフィール
神山復生病院長
【静岡県歴史人物事典より】
1889(明治22)〜1940(昭和15)。カトリック神学者。東京に生まれる。東京帝大文科大学(東大)卒業。旧制七高(鹿児島大)教授となり、1925年(大正14)欧州留学中、宿願の神学を学んで司祭となる。帰国後戸塚神父らとともに文筆、出版活動を通してカトリック思想の啓蒙に尽力。
1930年(昭和5)神山復生病院院長に就任。カトリック信仰を基として家庭的雰囲気の中で癩療養に専心できる病院とすることに尽くし、諸施設を拡充。患者たちからはオヤジと呼ばれ慕われた。また1920年には裾野市に温情舎小学校(不二聖心女学院)を創立している。
>参考文献=小田部胤明「戸塚神父伝」   (土屋 重朗)

淡々とした就任

カトリックの信者以外で、岩下壮一神父の名を知るものは極めて少ない。この静岡県で岩下神父が優れた社会事業家として、その手腕を遺憾なく発揮した業績について知る人は、なお少ない。社会事業史の学究である柴田善守でさえ、この岩下の存在を知った時、「正直あわてふためいた、というのが真相である。『このような人が、日本の社会事業史にあったのか』と、自己の不明を恥じたのである。」と言っている。

沼津から国道246号線を御殿場に向かうと、神山という地があり、道路に沿う黄瀬川に架かる橋を渡ると、神山復生病院がある。ハンセン病患者の病院としては、日本で一番長い歩みをもち、昭和54年90周年を迎えている。

明治20年、御殿場街道を徒歩伝道としていたフランス人宣教師、テストウィド神父は、水車小屋に看とる人もなく苦しんでいる、ライを病む30歳くらいの婦人を見出した。師はその痛ましい姿に心をうたれ、神の召命としてライ病院の設立を決意する。明治22年、テストウィド神父が初代の院長となるが、その40年後、岩下神父は6代目の院長として就任する。

この任職は、当時の病院関係者にとって予想外の快報だったようである。「シャンボン大司教様から、岩下神父様が次期院長として御たちになる旨の発表がありましたとき、一同は殊に驚きました。当時の日本カトリック界に、かくも名だたる神父様がこのらい病院に!と驚くばかりでしたが、また有難いことと思いました。」の言葉のとおり、衝撃的な驚きと喜びであったようである。昭和5年11月の事であった。

当時、岩下神父は、日本カトリック界にあって、確かに著名な人物であった。今日、百科事典に名をとどめ、次の様に紹介されている。「岩下壮一、1889〜1940、カトリック司祭、神学者、スコラ哲学者。岩下清周の長男として東京に生まれ、東京帝国大学文学部哲学科卒業。卒業論文は<アウグスティヌス神国論について>。第七高等学校(現在の鹿児島大学)教授となり海外留学。1925年(大正14年)6月イタリアで司祭となり12月に帰国。カトリック研究社、聖フィリッポ寮を創設し学生布教にあたる。」という。確固たる経歴の持主である。

神父の全著作は、「岩下壮一全集 全9巻」(中央出版社)としてまとめられているが、岩波書店からも、「信仰の遺産」「中世哲学思想史研究」が発行され、戦後も再版になっている。

かかる学者神父が「よくぞこの貧窮なライ病院に!」という思いは、病院関係者の共通のものであったろう。しかし岩下神父にとっては、決して唐突な決心ではなかった。病没した前任院長レーゼ師を、岩下は特別に敬し、かねてからその仕事を助けていた。父清周も早くから復生病院の有力な援助者であり、子壮一はこの父から「このような仕事をいつまでも外国人の手にだけお任せしてよいものだろうか……」という言葉を聞いていたのである。神父はためらいもなく、すこぶる自然に院長を拝命している。

「ところが岩下師は、いささかの誇張した悲壮感もなく、むしろ亡父の遺志をつげるのを喜ぶかの如く、当然のこととして、そこに赴任され、十年院長をつとめる間に、こここそ師の心のふるさととなったのである。……当人にとってこの一大事をこともなく片付けて淡々としている平凡さの底に、神との直接交渉という神秘思想の源泉が秘められているのではないか。浅瀬だからこそ水面に小波が立ち、深瀬の水面は鏡のように平らかなものである。」

伝記の著者、小林珍雄は、岩下の召命をこの様に伝えている。

オースチンの疾走

神学者、哲学者をスタティックな人間類型として捕えると、神山における岩下神父の生活は、およそそれとは縁遠い。院長就任後の神父の活動は、極めて行動的でしかも合理的、科学的でエネルギーに満ちている。神父は矢継早に、病院内外の諸問題に取り組み、よりよき改善を目指して猛進する。

小林珍雄はその姿を、「型はずれの大きさで、平気で天馬空をいく姿は、いわば霊界のドンキホーテの面影がある。」と評している。以下、復生病院の年表から拾ってみる。

昭和5年、野球グランド完成。岩下師の奔走により東京神学校野球チームと初めて試合を行う。神山水道が完成して飲料水の心配がなくなる。岩下院長は病院改善の計画をたて、第1期工事として男子病棟、未感染児童舎を増改築する。便所を水洗にしたり、消毒機を購入して消毒設備に重点をおく。雨潤会の寄付による礼聖橋が完成する。昭和7年、長年の懸案であった未感染児童を収容する。病院改善計画、第2の事業として職員宿舎、手術室診療室の増改築をする。病院の敷地を測量し、境界標を立つ。昭和8年、病院改善計画第3の事業として保育所を新築する。昭和9年、年末、患者数112名、未感染児童12名。病院改善計画第4の事業として、患者用調理室の改築をする。昭和10年、病院改善計画第5の事業として礼拝堂を改築する。病棟全部の便所を水洗式に改良する。昭和11年、患者収容のため自動車を購入する。

この積極的な展開を、当時の療養者はどの様に見ていたのか。以下、神父の事業に対する患者からの評価により、傍証してみる。

「A、岩下神父様は、10年間、癩者の院長として過ごされました。神父様の学問上のことに就いては到底語ることは出来ませんが、その10年間の神父様の御事業、印象に残ったことを語りたいと思います。神父様の御事業の一つは、建築でしょうね。日当りの悪い病棟を、南向に移し、レーゼ前院長を偲んだ病棟、レーゼ館を建て、皇室の御恵を感謝した、聖恩寮を建築し、馬・豚・鶏舎を病棟より離れた場所へ移転され、またボイラーを据えて、消毒、風呂など蒸気でするようなど、次々と計画を実行されるので、殆んど毎年のように職人の声や音で賑やかでしたね。

B、薬局を改築した際に、今まで患者が薬局を主任して、薬剤注射繃帯交換を患者の手で行っていたものを、薬剤注射は、看護婦でするようになりました。また衛生施設を考えられ、病院の廻りに溝を掘り、更に大溝を掘って、病院汚水が直接外部へ流れぬようになさいました。そして神父様は『これで衛生局長を呼ぶことが出来る』と申しておりました。そう言えば、今までなかった参観人の消毒衣姿が見られるようになったのでした。また重病室なども一つひとつベットに区切りをされて、重病者の居心地のよいことを第一に考えて増築なされましたね。ほんとうに、病棟は明るく日が射し、病院全体が整然として来ましたね。

A、その頃は、病院経営の殆んどは、社会人の寄附金によりました。神父様は毎年暮れにその年の決算報告をなさいましたね。当時、昭和10年頃、1万円ほど神父様御自身で経営負担をされていることが、決算報告で分かりました。」

第一流の財界人を父にもち、一高東大の選ばれた者の道を歩んだ岩下の人脈は大きくかつ豊富であった。天野貞裕、田中耕太郎、山本信次郎、岩波茂雄、菊池寛、近衛文麿、山本有三、和辻哲郎、土屋文明……など限りがない。敗戦前の民間社会事業が、公的援助がいかに乏しかったかを考えれば、100人以上の患者を抱えながら、これだけの病院近代化事業を推し進めた事は、並大抵の力量ではない。カトリック界での名声を加えて、出自・履歴・人脈すべてが神父に荷担したとしても、それを活性化して力としたのは神父自身の努力である。

昭和12年8月頃小型オースチンを手に入れ、自分で運転して沼津から箱根、清水、時には東京まで出かけて行く。45年前(昭和57年執筆時)の日本では、珍しい活動派である。御殿場街道の悪道路を、神父はオースチンで砂ぼこりを上げながら疾走する。社会事業家岩下の面目を象徴する光景ではなかろうか。

おやじのチンドン屋

日本よりも世界にその名高かりき新スコラ学派の岩下神父  チンドン屋の鉦打ち太鼓鳴らしつつ神父来ませり仮想たくみに この歌二首は、復生病院の90年誌に並んで掲載されていた。これを見た時、私は強い感動にうたれた。現在も療養中の作者の言によれば、復活祭の日、子供達がリヤカーにブドウ酒や卵を積んで、病室に配って廻った時、車の先頭に立った岩下神父のおどけた姿だと言う。ここに一人の人格の静と動、理知と情意、厳格とユーモアが鮮かに対比されているではないか。

「Y さくらが咲くと、夜、花見踊をしようと誘いに来て、神父が先になって庭で踊った。男の人が廊下の窓に並んで見ていて『のぼせているから女達に水ぶっかけてやれ』って言ってたわ。(笑声)」

「司 ほがらかでしたね。神父様が真先になってやってくれたからね。」

「Y そうよ。先に立ってくれる人がなければね……」

「T 三味線をね、神父様がどこかのお嬢さんから貰って来たのです。そして三味線のコマを買いに神父様が自分で行ったんで、その店で驚いたそうですよ。」

「司 三味線のコマを買う神父か(笑声)」

岩下院長のおどけは、患者への愛そのものであった。彼等が喜んでくれるなら、なんでもしようと思い、また器用になんでもやってのけた。

写真に見る如く、岩下院長の風貌は学究者のそれである。長身痩体、幾分足の障害はあったものの、背筋の伸びた貴族的な風格であった。当然「先生」とか、「神父様」とか呼ばれてしかるべき筈なのに、不思議な事に、患者の多くが「おやじ」「親父」と親しんで呼んだのである。

ある患者は言う。「親父が癩の全治について、その実現を如何に期待して居られたか。遊ぶこととおしゃれに余念のなかった私を、叱責しかねないまでに嘆かせた言葉の中に感じられて余りがあると思います。『治す気になれないのか』この短い言葉の中に、親父の癩に対する闘いが秘められていると思うのは、思いすごしでしょうか。」

また、ある患者は、短歌にかく詠んでいる。

祈ったんだよと院長は喜び下されき              危機を脱せし吾か枕辺に  夜のしじま廊下来給うらしき院長の              靴音きけばただに嬉しも 多くの患者が長身白皙の院長を、まるで馬方を呼ぶように「おやじ」と称したのは、単に人柄の大きさや暖かさだけではない。むしろ、自分達と一緒に癩と闘ってくれている。その闘いの先頭に立ってくれている。その力強さへの信頼からであったのではないか。

隠れていた富士

岩下神父は中国教会事情の視察旅行中に病を得、帰国後、復生病院で逝去した。昭和15年12月3日である。

私が初めて岩下神父の遺影を仰いだのは、昭和21年夏、復生病院の応接室を訪れた時であり、「中世哲学思想史研究」を読んだのはその数年後の事である。まったく個人的理由から復生病院とは縁ふかく、岩下神父にはそれなりの関心があった。今回の小論を書くにあたり、資料を探索して改めて驚いた。

静岡県内の社会事業に、この様な、たぐい稀な大型人物の足が残っていたのである。私は今、限りなく奥のふかい彼の事蹟の、門前に佇んだ思いがしている。

巨大で秀麗な富士が隠れて見えなかったように岩下神父は隠れていた。神父はこの静岡県で、福祉事業の立場から、現代的評価を試みなければならない、第一級の人物である事に間違いはない。

※ この文書は昭和57年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(山浦 俊治 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )