File16 金刺 平作 氏 Heisaku Kanazashi

プロフィール
駿豆学園創設者〜県愛護協会二代会長〜
金刺平作氏。西伊豆の澄みきった海に面した景勝の地に立つ精神薄弱児施設駿豆学園の創設者であり初代園長である。また県愛護協会の二代目の会長として県内精神薄弱関係施設のまとめ役にあたられた奉仕の人である。

公務員の身で私財投ず

この仕事に私財をなげうって献身された創設園長は県内にも珍しい例ではない。が公務員、しかも土肥町総務課長という組織のトップの座にあった氏が6,260㎡をこえる土地を提供して施設実現に力をそそいだ、ということは、なかなか出来ないことであり、奇特な行為とうけとめられるのである。まだ氏を知る人々は多い。日時の関係上不十分な資料のままにそのプロフィールをまとめ、おおかたのご叱正をお願いすることとしたい。

あしあと

金刺平作氏のあしあとは次の青木土肥町長の言葉によく表現されているのでお読み願いたい。

(追悼の言葉)
駿豆学園長 故金刺平作氏の追悼広報発行に当たり個人の御冥福を心から祈念致し、生前の業績に感謝を捧げます。
金刺園長は、昭和16年中央大学商科を都合により中退され、その後会社勤務また兵役に服し、昭和22年西伊豆村役場に奉職され、昭和31年町村合併により土肥町役場勤務となり、総務課長、住民課長、災害復興の課長として、かつて経験した事のない、あの大災害の後始末と、復旧事業を、日夜をとわず処理された事は大変な努力であったと思う。
また、その後住民課長として、弱者の心を心として、自分の財産を提供し、駿豆学園の建設が完成した事は承知の通りですが、この実現には家族の理解と協力が大きな力であったと思う。しかし地域住民の理解には、相当の苦労があったと聞かされた。一部の人からは、何を考えているのか、正常の頭か、等批判もあり、非常に窮地にたたされた。
しかし、金刺氏の信念は変わらず、遂に学園を完成させ、自ら不幸な子供の面倒を見るという事で役場の課長を捨て、園長として就任した。

就任後は、馴れない職場で全く孤軍奮闘、相談する相手もなく、県の指導をあおぎながら遂に駿豆学園を県下に広め、またこれ等施設の指導的役職に推された事は、金刺氏のこの仕事に対する情熱と持ち前の豪放的な性格また実行力があったからであります。
人間は生まれながらに平等であり、障害者をいたわる心はもっていてもいざ実行となると中々容易ではない。
学園の児童も年末には家に帰るが、時に家庭の都合で残る子供があります。その子供を自分の家に引き取り、正月を家族と共々暖かく過ごさせる。これは言うことは簡単であるが実行することは全く大変な業であるが、金刺氏は普通の事の様に何も言わずおこないました。これには改めて教えられることがあります。
駿豆学園も、関係市町村の御協力と御援助により一応整備されたが、入園児童の減少の問題、成人対策等種々の案件が今後の課題であります。学園の職員は、自らの使命を再認識され、金刺園長の無き今、尚一層努力され、地域住民にも親しまれる施設とされる様頑張って下さい。
今、社会は学内暴力とか家庭内暴力と荒れ狂っている。きっと草葉の陰でなげいていることと思う。これからは、金刺氏の遺志を我々は生かし、本当の福祉にまい進しなければならないと誓い、言に尽くせないが哀悼の言葉とします。

駿豆学園管理組合管理者、土肥町長
青木 隆
(昭和58年10月 駿豆学園広報誌 あすなろ66号より)

住民課長体験が動機

駿豆学園はテングサで知られる小下田港の近く、海岸まで歩いて1分、ミカン畑にかこまれた丘陵の地にある。この土地6,260㎡を氏が施設のために提供しようとしたとき周囲のだれもが正気かとうたぐった。西伊豆の澄みきった海に面した景勝の地、国道136号線に沿った交通の便も良く、それまでに観光業者が何度も買いに来た土地である。地価がどんどん上っていく時、先祖伝来の土地を、おしげもなくなげだすとは世人には考えられないことだった。なぜか、この答えをもとめて関係者の何人かにたずねてみたが、その集約されたものは「住民課長時代に障害をもつ児の親たちの悩み、苦しみ、不安などに接しなんとか力になってやろうと決心された」というものである。戦争体験と36年6月の集中豪雨による大災害の後始末を担当するなかで感ずるところがあったのだろう、という意見も。

現園長甚一郎氏のお話でも、家族には「決めたよ」とあとから話あった、という。本当のところは金刺氏ご本人の胸中深くわけ入るしかない、という感である。公務員としては最高の地位にあってなおこの決心をされ、しかも自らその園長の役を引きうけるために役場を退職される、という英断にはただ脱帽するのみである。同じ公務員として同じような福祉体験をもちながらなかなかこの様な行動をとりえない自らをかえりみるとき氏の偉大さにあらためて感じさせられるところが大であり、このプロフィールに氏をとりあげることにした要因でもある。

協力と応援の力

氏が土地提供の決心をされても、学園建設までは多くの難関があった。地元の関係者でも反対する人もでている。精神障害者の施設との区別も知らずにとまどう人もいる。このなかで最後まで屈しなかった氏の決意の固さが大きな力ともなり数多くの人との協力と応援がよせられた。時の県福祉事務所八木所長の話では、地元を固めるための市町村の親達に手をつなぐ親の会の結成をよびかけ、関係市町村による管理組合の組織化、国県の補助金要請、そして担当の村田氏らと地元の説明会にも何度か足をはこんだ、とのことである。

開設以来氏の右腕として基盤づくりに汗を流され現在尚総務課長として学園の運営を担当している黒田健祐氏は、恵明学園杉村園長のお世話ではるばる東京の福祉施設から移られたもの、その黒田氏は福祉寮を自らの資金で購入した住宅に開設、私の生活も卒園児と共におくる日々で、土肥の地に根を下され金刺氏の遺志をつぐ一人となっておられる。

現土肥町住民課長吉田氏のお話でも、氏の役人らしからぬスケールの大きな人柄と、どこまでもくずれない酒豪ぶりで関係者のだれからも愛され信頼されていたことが、関係市町村長らをも動かすことになったのだろう、とのことである。現在も学園管理組合は地元土肥町長を責任者として変わらぬ学園の経営に援助をおしまない体制を維持しているのであり、氏の長男甚一郎氏を後任に選ぶことも異議なく決定している。その甚一郎氏が安定した職場を去り、父のあとを継ぐことに決めたのも、黒田氏らの熱心な説得と、この偉大な父の志をたやしてはならない、というおもいがあった。志なかばにして倒れた氏のまさに無私そして奉仕の念と行動が立派であったが故に没後4年、なお変わらず障害をもつ子らの楽園は明るい陽光のもとに多くの力に支えられて活気ある笑声にあふれて立っているのである。

情熱と見識

昭和51年から亡くなられるまで県愛護協会の会長であったのも氏の人柄。県内精神薄弱児施設60余の施設長、職員により組織されているこの協会の長である地位を8年にわたり担当し、職員の専門家としての資質向上等に大きく貢献された氏の力量はなかなかまねできないもの、とあとをつがれた現八谷会長の言葉である。氏の駿豆学園長としての立場をこえてひろく障害者福祉の推進にかけられた情熱と見識のほどは、学園広報紙あすなろに毎号よせられた筆のなかからもうかがうことができる。次のその一部を省文で紹介することにしたい。

施設の社会化

福祉施設は社会から隔離され閉鎖社会として嫌われがちです。それは地域の人々が精薄児等について知らないからであり、施設側も理解してもらうための努力が不足しているからです。当園は地域との交流が自然に行われ、納涼盆おどり大会は多数の参加で開くのが恒例となり、職場実習でも地域の協力を得ています。重度児には厚い保護を、中軽度児には生甲斐のある社会参加の機会を与えるのが施設の使命だと思います。このためにも施設のオープン化に努め、地域資源の開発が急務です。

(54.10. あすなろ46号)

福祉教育こそ

54年度に土肥中学校が文部省から心身障害児童理解推進校に指定され”中学生が心身障害児に対する正しい理解と認識を深める教育をどうするべきか”の研究テーマにとりくまれました。最初に当園児童に接した中学生は”気持ちが悪かった””いやだと思った””あまりかかわりたくなかった”等率直な感想をよせています。それが全校生徒が教師と一体となって行事に参加し、交流を深めるなかで、次第に理解してまいりました。指定が終わってもボランティア精神はうけつがれております。今年の盆おどり大会のうら方を奉仕してくれたのも中学生でした。自ら訴えることのできない児童のためにも福祉教育こそ最も緊急な課題です。

(56.9. あすなろ55号)

親なきあとを考える

学園創立から10年、106名の児童が入所し、58名が卒園していきました。福祉の考え方もノーマライゼーションの思想が強くなり、障害をもつ人々が地域社会の中で、ともに生活することができることが正常であり施設に収容隔離されるのは望ましくないとされるようになりました。そのためには生活できる条件を整備する必要があり、障害者自身の生き甲斐を何にもとめるかが問題であります。親達の悲願として運動し義務化が達成した養護学校に入学を拒否する親には大きな矛盾を感じます。あくまで障害をもつ児童の幸せのために、を基に考えるべきです。10周年を迎えるにあたり”親なきあと、この児らが安心して生活できる場を、親の達者なうちに考えよう”と強く訴えます。学園父兄会では基金づくりにとりくみはじめました。

(57.1. あすなろ56号)

障害児に生涯を捧げる

今、駿豆学園の玄関に氏の温顔そのままを見事にうつした胸像が立っている。いつまでも学園を守り伝統をつくり、地域の人々との連携のシンボルとしての役割をはたしていくことであろう。その胸像の下には氏の遺稿の一節がほりこまれている。園長席の机の中にあった未完の遺稿である。その全文を紹介させていただくが、これを読むとき氏がなぜこのいばらの道に足をふみいれたか―の根のところにふれたおもいがするのである。

遺稿 幸福について

金刺 平作

人は誰でも幸せになりたい願望をもっていると思う。だがほんとうの幸せって何だろうか、誰もわかっていないだろう。
若し自分が幸せになるために他人が不幸になるとしたら、その人を見捨てて自分だけの幸福感に満足出来るだろうか。
病み傷ついた人を励まし、助け起こすことは誰でも出来るが、人の不幸を軽くするために自分の生涯を捧げることが出来るだろうか。
物質万能のこの世の中に、不幸にも障害を背負って生まれた児者のその障害を、少しでも軽くすることにその生涯を捧げることが出来たら、これ以上の幸せはないと思う。
これは誰にも出来ることではないからである。

― (注)この遺稿は7月上旬、一寸東京へ検査に行ってくるよ、と言って上京、その留守中の園長机の中へエンピツ書きでメモされてあった。検査が終わればすぐ帰園するつもりでいたものが不帰の客となられた。(吉田聖氏談)

昭和58年9月16日、腎不全のため急逝、前から血圧の薬を愛用していたのがかえって悪かったのでは、と甚一郎氏。62歳、氏の堂々たる体軀からしてもあまりにも早い、あまりにおしい旅立ちであった。

(志田 利 筆)

※ この文書は昭和61年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )