File08 戸巻 俊一 氏 Syunichi Tomaki

プロフィール
芙蓉会の創設者〜先覚者の偉業を継承した〜
戸巻 俊一  明治40年4月6日〜昭和58年4月17日
戸巻 静代  明治42年10月8日〜昭和47年5月8日

※注「 路導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―」では「戸巻夫妻」と紹介されています。

富士育児養老院で奉仕

先覚者の偉業を継承

渡辺代吉の創立した富士育児養老院を継承した戸巻俊一は、秋田県横手市にて代々佐竹藩士を務め、明治に入り時計宝石商を営む戸巻家の長男として生を受けた。

父親は大変厳格な士族の伝統的な訓育を施した。中学を修了するに当り、本人は基督教の牧師を志し、神学校への進学を希望したが「家業を継がずにヤソ教の坊主になるなら学費は出さぬ」の言葉に、家を捨て、筆稿を生活の糧として東北学院神学部へ入学、志す道へ進んだ。

昭和2年の夏休みに友人より富士育児院の話を聞き、この施設を訪れた。そこには健常な者二、三人の外は障害を持った子供達と身寄りのない老人達、及び、頭部癌と闘病しつつこの人達を守り奮闘している創立者の姿を見た。何か自分でも出来る事をと、子供達の相手、年寄達の話相手や、寝たきり老人の看護等の手伝いをした。

或日、院長の命令で実際にオムツをし、それで用便を取って貰う体験をさせられ、それ以降、後の婦人小野静代と競争で老人のオムツ交換をしたとの事。

夏休みも終り帰校しようとすると、院長から「自分は頭部癌で重体であるので、神学校は止めて是非子供や、老人達の為に奉仕して欲しい」と切望され、意を決して、社会福祉の道へと院に留まった。やがて、闘病中の院長が入院すると事実上の経営の重荷が21歳の青年の肩に掛かった。

昭和3年5月、院長の長い闘病も終り、夫人のまつが二代院長になった或日、富士育児養老院を当地の仏教会が経営してゆく事に理事会も賛成したが、先代院長の遺言通り基督教の清新で今後も継続してゆきたいと願ったら「院長在世中でも種々相談され随分困ったが、君達女子供だけでは困る事は目に見えている。理事会の勧告を受けなければ、理事全員手を引く」ということで一切の経営の重みが、二代院長と若き戸巻にかかって来た。元静岡ホームの故石丸のぼる先生に経営の手解きをうけ、博愛克己袋による募金とか、米一握袋等と地域の協力を願う方法で東は下田から西は庵原と自転車を足に募金にはげみ一応経営の見透しが立つ程に院長を補佐した。

静代夫人との出会い

昭和4年に苦労を共にした若きヘルパーの小野静代と結婚した。静代夫人は現小山町吉久保の生まれ、親戚には基督教の牧師を務める者もある程に、又、まつ夫人が御殿場の出身であった事から、俊一よりも一足速く、この仕事にヘルパーとしてよく働いた。二人が結ばれるのは当然の帰結であろう。

結婚後、院の経営にはまつ夫人の子息夫婦が当る事になった事から、戸巻夫妻は院を去り俊一は東洋大学の社会科に夜間であったが勉学の道に戻った。

昭和6年5月二代院長も逝去され、後継者問題で度々帰院を求められたのであるが身内の方もあるので、その招きに遠慮していたが、富士育児養老院の一切を若き戸巻夫妻に任される事となった。

大正の古きよき時代から軍国主義台頭と、世間も世知辛くなる時代に院を受継ぎ、経営の基盤である募金も困難を極め、又、親達の慈善的行為も子供達の世界では「おらんち育児院に金やったぞ」と院児がののしられた事から、一切の募金活動を中止し、松野老人(現在でも孫さんが精肉店を経営している)の推めた養豚事業の経営の活路を求めた。子供の時から耳が不自由で、院で成人した喜三を助手に、リアカーを引き厨芥を集め、これを飼料にと、施設の自立を方針として経営努力し、養豚事業を四十数年に亘り継続した事が現在の芙蓉会の運営にも多大な財政的寄与をした。

この若き夫婦の献身的姿に蔭ながら応援して下さった方々も数多い。特に名を挙げると東北大学医学部出身の故紺野敬平先生の御協力は院の歴史の内でも最もたるものである。財政的援助は勿論、老人子供の医療については一切御奉仕下さった。俊一は写真にも造詣が深く白鷺会と言う同好の士の集まりがあり、会員の方から蔭に陽にと御協力が得られた。

戦時中は、老人や障害を持つ子供達への風当たりも強く、配給にしても人数が50人いても、一戸単位の配給物資には一戸単位と言う事で薪炭を始め食料に至る迄の物資不足は大変なものであった。夫人は子供達と共に川原で薪拾い、イナゴとり、空いている土地には野菜作り、又野草の採取と食べられるものは何でも食膳にのせた。

又、俊一は、はるばる秋田迄米の買出し、はては亡くなった老人達をリアカーに乗せ隠亡のいない火葬場で自ら遺体を焼き骨を拾う等、秋田の実父の逝去によって相続した財産も院の経営に又建物の増改築等に総て費やしたが、戦時中の苦境にも拘わらず、三度の食事を入院者に与へる事を一度も欠く事はなかった。

芙蓉会の創設

戦後は戦災孤児の収容による院児増加、又、軍政部の命令で養老部を伊豆長岡へ分離、同胞援護会へ委託する事となり、再び元の富士育児院と改称し、児童福祉法の定める養護施設となった。

戦後の大変な時代には養護施設への入園も多く、又、県下に乳児を入所させる施設がなく、乳児であっても養護乳児として措置された。

畏くも戦争中の空襲により仮宮殿で御不自由な日々を営んでおられた天皇陛下より不幸な子供達へと特別御下金を賜る栄を受け、一念発起して定員20名の乳児院(現恩賜記念みどり園)を設立(昭和27年3月)し、又、幼児の施設を増築し定員80名の養護施設(現ひまわり園)へと発展させた。

昭和31年9月、不慮の火災で施設の大半を焼失したが、当時の吉原市長金子彦太郎氏の御協力と激励、及び、各方面の御協力を得て一応復興を成した。これを転機に、又、児童福祉施設の重要性に鑑み、富士育児院の総てを挙げ社会福祉法人を設立し、名称も故秩父宮殿下御命名による芙蓉会と改め、乳児施設恩賜記念みどり園と養護施設ひまわり園を経営す社会福祉事業法による社会福祉法人として認可を得た。(昭和32年6月12日)

行幸啓を仰ぐ

同年第12回国民体育大会が静岡県で開催された折、天皇、皇后両殿下の行幸啓を仰ぐ栄に浴した際、壁にかけてあった不燃化移築計画図に御下問があった。戸巻は、不慮の火災の折、地元の協力と常日頃の訓練から一人の犠牲者も出さなかった事を言上、更に児童福祉の為に将来の計画について御説明を申上げた所「これが実現したら子供達はより幸せになるでしょう」と有難い御言葉を賜った。

この事を知った金子彦太郎市長は後日戸巻を招き「君は大変な事を天皇陛下に約束したな」と問われ本人も驚いた。例の不燃化移築計画の一件は約束したも同じであり早々に計画の実行をと言う事で、国、県、共募、市の援助により土地を現在の今泉に求め鉄筋コンクリート造りの園舎、家庭寮と小舎、大舎折衷の施設が好意ある竹中工務店の施行により実現、昭和33年12月8日、秩父宮妃殿下の御台臨を賜り移転新築落成の式を挙行するに至った。

当時鉄筋コンクリートの建物と養護施設の通念とは馴染まず、一部には、「こんな贅沢な建物を」と批判的な声もあったが、四半世紀を経た今日でも陳腐化せずに養護施設の機能を果たしている。

敷地と資金の関係から、やもなく古材を使用して、木造で移築したみどり園も昭和50年度事業として、自転車振興会、県、東部市町村、富士市、市社協と各方面の援助を頂き、耐震性を考慮した近代的な建物に増改築する事が出来た。

戸巻は園務の外に、公的な社会活動にも多大な時間を捧げた。戦前には静岡県私設社会事業連盟理事から、少年教護委員の役職を与えられ、戦後は静岡県民生委員を皮切りに保母試験委員、県社協理事、児童福祉審議会委員等の要職に就いた。静岡県立保育専門学院が設立されるや、講師として長年保母の養成にも貢献した。

社会福祉施設の職員が安心して働けるようにと、静岡県社会福祉事業共済会の設立に際しては基金造成にも尽力し、長年にわたり内山信一会長の補佐役として貢献した。

業界においては静岡県養護施設協議会の会長、又、民間社会福祉事業施設連合会の会長等の要職に就き、指導的役割を果たした。

又、全国社会福祉協議会の乳児福祉部会の副会長及び予算対策委員長として乳児福祉の増進にも多大な貢献を成した。

ボーイスカウトにも力

現今、盛に施設のオープン化とか、社会化が叫ばれているが、戸巻は園児の処遇の一環として昭和25年12月、園児と地域近隣の子供達を含めた、日本ボーイスカウト吉原第一隊の設立に務め、自らは育成会長の任に当り、青少年育成の事業に乗出した。富士地区のボーイスカウト運動の推進者として積極的な活動をした。戸巻に共鳴しボランティアとして指導者になる若者も多く、指導者会議には施設を提供し、若者達と共に夜の更る迄も熱論を議し、又、ユニホーム姿も戸巻にはよく似合った。この奉仕活動も地域に留まらず、県、国のレベルに及び、昭和44年には日本連盟総長より鷹章を授与された。

この様に園務以外、多岐に亘る領域での活動も、静代夫人の内助がなければ不可能であった。

夫人は昭和2年富士育児養老院の時代から昭和47年5月、64年の生涯を閉じるまで、老人の介護から子供の世話、お勝手仕事、畑仕事、果ては金策に至るまで、一生を黙々と働き通した人である。

戦後の苦しい時代、子供達と川原での薪拾いに出かけた。川原の堤の腐れ杭を抜いたと子供達が叱られた時、常日常は地味で控え目な美しい女性であるが、その反撃たるや、丁度雛を護る若鶏の感があった。

戸巻は甘えに厳しい人であった。卒園者が職を離れ、園を頼りに戻ってきた折、我儘での離職には厳しい態度を執ったが、その者が園を去る時、夫人に蔭ながら幾何かの金品を与えられ、優しく力付けられ再出発への勇気を与えられた者も数多い。

「戸巻夫人は顔だけみたでは本当の姿は解らない、その手を見なさい。」と世間は評したものである。美しい品のある顔立ちと節くれだち荒れた皮膚の働く者の手とは、どう見ても似あわないものであった。

病をえて、昭和47年5月臨終の折にも「さー家に帰ろう〜」と意識の混濁して来た時も園の事が気になって、後髪を引かれる思いで早逝したと思慮される。

戸巻は曲がった事、筋の通らない事は大嫌いであり、正しい道を歩まんとする者には「これがあの厳しい戸巻か」と思われる程の助力をした。又、自分に対しては誠に厳しい人であり、施設運営も自立を信念として精一杯努力をした。50歳代に糖尿病となり、爾来四半世紀に亘る闘病生活の経験から、白菊会会員として遺体は医学の振興の為にと献げられた。

臨終の折「うちの幼児達は賛美歌が上手くなったなー……サ、時間がないモーニングに着替えなきゃ……」と言葉を残して76歳の生涯を閉じた。

キリストと言葉を伝える事を志したが、ならず、一生をキリストの御手の業の為に捧げ、礼装して妻の待つキリストの元へ旅立った事であろう。

※ この文書は昭和58年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(内藤 順敬 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )