File34 内山 信一 氏 Shinichi Utiyama

 

 

 

 

 

 

 

プロフィール

天竜厚生会 第3代理事長 ~政、官、財そして民から信頼された偉人~

1 社会福祉に捧げる覚悟

内山信一氏は明治42年に出生、天竜二俣町(現在の浜松市天竜区)で育った。昭和7年東京帝国大学法学部政治学科卒業後、東京農工銀行(現みずほ銀行)に就職、昭和16年から自家林業に従事し、天竜厚生会理事長(第3代、昭和40年~平成8年)、静岡県林業会議所会頭、遠州開発株式会社取締役社長、株式会社静岡第一テレビ代表取締役社長などを歴任し、社会福祉をはじめ林業振興など幅広い分野に貢献した。数多くの要職を歴任した内山氏であるが、社会福祉関係では、全国社会福祉協議会副会長(平成3年~平成6年)と、静岡県社会福祉協議会会長(平成元年~平成6年)を務めた。また、静岡県内の各法人代表者と共に民間社会福祉施設職員の処遇改善を目指し静岡県社会福祉事業共済会の発足に尽力、その初代会長(昭和43年~平成8年)の職にも就いた。

昭和40年のことである。林業家として成功し静岡県の道路会議(土木関係の審議会)委員を務めていた内山氏は、天竜厚生会の理事長就任要請を固辞していた。しかし、天竜厚生会の職員と多々話し合った結果、理事長就任を決断した。その頃について内山氏は次のように記している。

「(略)山村君、大石君と、施設の運営についていろいろと話しあった。奇特な個人の慈善事業の世の中ではなくなった。地域社会の問題として考えるべきである。亡父の理事長時代の役員構成ではすでに限界がきている。山村君達の夢の実現には、私個人が私財をなげうっても不可能である。そのことを期待するならば理事長就任はできない。役員構成の改革による資金調達の円滑化の施策と、施設運営の十ヶ年計画を見せてくれた。それを検討した上で考えることにしたのである。(略)」

内山氏は、更にその十ヶ年計画が行政の社会福祉政策と方向性が一致していることを確認した上で、第3代天竜厚生会理事長に就任(昭和40年10月1日付)した。上述の記述は次の言葉で締めくくられている。

「私の人生の余熱を社会福祉に捧げる覚悟である。」

 

2 天竜厚生会理事長として

理事長に就任した内山信一氏の存在は大きく、先進的な考えにより現在の天竜厚生会の礎を築いていった。その中から「社会福祉施設整備」、「ご利用者のために」という2項目について以下で述べてみたい。

 

(1)社会福祉施設整備

内山氏は理事長就任後、当時事務局長であった山村三郎氏から提案された十ヶ年の施設整備計画を承認した。この計画は、知的障がい者、身体障がい者、高齢者の大きな三本柱で構成されていた。重度障がい者あるいは現在で言う要介護度の高い高齢者のニーズに応じ天竜厚生会内の各事業所で支援するものであり、地域社会で本当に困っている方々が利用したいサービスの提供体制をつくるというものであった。同時に、福祉は広域行政と一体となり総合的に実施すべきであるとし、役員構成を大幅に変更した。静岡県西部を中心とする自治体の長(7市町、5郡22ヶ町村長)に役員として参加いただいたのである。この静岡県西部の地方自治体との連携が施設整備計画を推進する原動力となった。

また、内山氏は国や静岡県と様々な調整を行い、広大な国有地を社会福祉に供することを可能とした。内山氏の社会福祉にかける情熱とそれを信頼してくださった結果であると考えている。同時に、内山氏は経営判断に足る根拠を基に作成された事業計画であることが確認できると、提案者を信頼して業務を任せる大きな器を備えている人物であった。結果、職員も内山氏を信頼し相互の信頼関係を基に天竜厚生会は大規模化していったのである。

 

(2)ご利用者のために

ここでは内山氏ならではのエピソードに少しだけ触れておきたい。

まず、天竜厚生会まつりにおける芸能人ステージの充実である。天竜厚生会まつりの後半部に、静岡第一テレビ社長という側面を活かした芸能人歌手のショーを組み込むことで、ご利用者、ご家族、地域の方々、職員といった参加者全員の一層の満足を得ることを試みたのである。これは昭和56年以降今なお継続しており、ご利用者のみならず地域の方々も楽しみにしていただいている。

次に、子育て施設におけるサッカーへの取り組みである。スポーツが好きだった内山氏には「子どもたちの保育に、何かスポーツを取り入れていこう」という思いがあった。サッカー選手とも親交があった内山氏は、年長児の保育にサッカーを取り入れ専門家に指導いただくこととした。昭和63年に始まったこの取り組みも今なお継続中である。

また、昭和47年に身体障がい者に働く場を提供し社会生活を営む場として開設された天竜福祉工場は居住環境を備えていたが、結婚した後、子どもと暮らす時、退職した後などに生活する場がなかった。国や静岡県の方向性も確認しつつ、天竜市(現浜松市天竜区)にその状況を丁寧に説明した結果、計30世帯分の天竜市営第二種公営住宅(福祉住宅)を建設いただいた。新たな生活の場ができたことを受け、ご利用者同士で結婚する意志を固めた方々が現れた。内山氏は奥さまと共に最初に結婚を決めた二組の仲人を務めたのである。その後も結婚するご利用者が続き、中には天竜福祉工場の食堂で合同結婚式を行い、周囲から温かい祝福を受けたという記録も残っている。福祉住宅の存在が障がい者の生活の幅を広げたことは確かである。

 

3 文の人

内山信一氏は激動の時代を自分の人生に重ねて5冊の本にまとめている。最後に内山氏の著書から同氏の軌跡を振り返ってみたい。

1冊目の「林声人語」では林業経営に邁進した半生を綴っている。あとがきでは、物言わぬ森林の叫びを人が語り伝える必要があり、林業と同様に社会福祉事業も必要とする人の叫びに手をさしのべる点では共通点があると結んだ。

2冊目は昭和55年に発刊された「年輪」である。天竜厚生会の理事長の就任にあたり、社会福祉施設整備の財源を浜松市など静岡県西部市町村にお願いする施策を既に考えていたことなどが記述されている。

3冊目は昭和58年に発行された「忙中閑語」である。忙しい日々の中で少しずつ書いた文章がまとめられている。74歳にして新幹線に年264回乗ったエピソードなどから当時の多忙が推察される。

4冊目は昭和60年に発行された「思い出草」である。長寿を保ち、「一隅を照らす」ことをモットーとして世の中のために働くこと、今もその意志と情熱は変わらないと記述している。社会福祉法人の理事長、ゴルフ場の経営者、テレビ会社の責任者と何事も神の命ずる運命と心得て、取り組む姿を述べている。

5冊目の「山窓余話」は80才の時に発行された。いつまでも現役で、社会福祉の仕事も森林経営も停年はないと述べている。また、健康の秘訣は仕事があること、スケジュールに追い回されている自分は幸福だと感じていることが記されている。

80才を過ぎてもなお、6冊目を手がけていたようだが形にならなかったのは残念である。

内山信一氏は、人生経験が深く且つ巾の広い見識を持ち、政、官、財、そして民の信頼を得ていた。

「九十九匹はみな帰りたれど、まだ帰らぬ一匹の行方訪ねん」

いつもこの聖書の一説を口癖のようにしていた、優しい心をもった偉人であった。

 

 

元社会福祉法人天竜厚生会常務理事

宮澤 育男 氏 執筆