File13 渡辺 鋭 氏 Satoshi Watanabe

プロフィール
長岡寮湯の家創立者〜老人福祉施設の草分け〜

法のうらづけないなかで

老人福祉施設の草分け

渡辺鋭さんは、長岡寮湯の家(現養護老人ホーム)の産みの親、育ての親であり、本県老人福祉施設創始期のリーダーとして業界発展のために尽くされた方である。

今、高齢化社会のなかで特別養護老人ホームが社会福祉法人の手で次々と建設され、さらに設置希望が続いており、ブームとさえいわれるような状況にある。この時ゆえに−戦後の混乱期において、だれひとり手をさしのべようとしなかった孤独老人のために、法による設置費や経常費のうらづけもないときにもかかわらず、私財を投じ、自らの給料をも寄付して献身された渡辺さん(生前の呼びなれたこの名で書かせていただく)の足跡をさぐり、その横顔の素描をこころみてみたい。

背景 〜終戦時の社会事業〜

渡辺さんが老人福祉に献身された終戦当時の県下社会事業の実態を鈴木孝行さんから記録していただいた。当時の状況を理解していただくためにそのままのせさせていただく。

戦争が長引くにつれ、社会事業は軍事援護、戦時災害保護の重点が移り、従来から老幼鰥寡孤独者等の処遇には著しく変化はなかった。そこへ終戦、それまでなんとかもちこたえてきた多くの世帯に変化が現われた。

孤独老人、浮浪児、新たな母子家庭の出現等である。もちろん日本全体としては、復員軍人、徴用解除や引揚者の復帰、ついで失業、インフレ等問題が多く当然経済の復興が優先されるべきものであったが、社会事業の整備はまた一刻もゆるがせには出来なかった。

しかしいかにせん当時たよりにする社会事業関係法は、児童関係(児童虐待防止法、少年教護法、母子保護法)以外は生活保護法ひとつにおさめられ、老人も子供も母子も同じ施設に収容される現実にあったのである。かかる状況においてGHQ(占領軍総司令部)の強力な指令が社会事業関係にも次々とだされ(昭和20年から26年にかけて)結果的には抜本的な近代化への脱皮がはじまり、現在の福祉時代へとつながるのである。

あゆみ 〜犬のエサ代以下の食費で〜

(渡辺さんの足跡)
※ 年表につき省略させていただきます。

GHQの命で養老施設へ

養老施設湯の家がGHQの命令で開設されたときの事情を、当時、軍政部との窓口役にあたっておられた深沢鉱ニ氏(同胞援護会県支部主事)の記録から紹介させていただくと次のようである。

「敗戦日本の二年目を送ろうとする昭和22年11月20日の早朝、軍政部ランドルフ厚生課長より呼出しに接する。用件は伊豆長岡の湯の家の施設目的である休養施設を廃止して養老施設に切替えよ、というのである。休日もなく社会事業に従事している人達のため一ヶ所位あってもよいのではと説明したがなかなか了解せず『日本は戦争に負けたのだ、勝った米国より命令する』の一言でやむなく了解した。ついで『20日間の猶予で老人を収容しろ』の命令である。敗戦のみじめさが身にしみてつらかった……」早速富士育児養老院(当時老人も子供も一緒に収容されていた。現社会福祉法人芙蓉会)の戸巻院長に連絡し同院収容老人13人を入所させることからはじまる。入所した当日ランドルフ課長がジープでかけつけ靴のまま老人の収容状況をみてまわった―と深沢氏は書いている。この日から渡辺さんの老人とともにする生活がはじまったのである。自らの健康を害して奉仕のなかに倒れるまでの長い無私の23年がつづくスタートの日、それは昭和22年12月8日であった。

ヤミ米で老人を養う

町の草相撲ではいつも横綱をはり土俵入りをしたという渡辺さんは、体格良く、温厚な人柄で模範青年であった。母親を早くなくし、家業をささえながら町の世話役をすすんでひきうける真面目な旅館の若主人だった。

戦争から帰ると旅館は人手にわたりまさに浦島太郎の感だったが、人柄を買われ県同胞援護会に勤務してかつて己の旅館であった施設経営に献身されるのである。少ない保護費で老人の食事をまかなうために、早朝大八車にこやしをつんで畑にはこび、いも、大根、玉葱などを植えた。旅館のみなさんに迷惑にならないよう朝星いただいて車のあとおしをしたきよ子夫人は「火の車だったけど老人のためにと夢中だった」と笑って語る。「なによりつらかったのは、老人のためとはいえヤミ米を買いにおまわりさんの目をぬすんで買い出しにでかけることだった」と渡辺さんは後年、湯の家の中野さんに語っておられる。人一倍真面目な渡辺さんはやむをえないとはいえ法の目をくぐることに自責の念を禁じえなかったのであろう。

老人のお世話をすることについては一言も不服をのべたことはない。そして老人を常に対等の人間として遇し下に見ることはなかったしおこることもなかった。みんな夫々の人生を懸命に生きてきた人達だから、といって職員にさとしてきた。今でも視察にみえた方は、老人達が明るくのびのびとしているのに驚くほどである。「渡辺さんの教えが生きているから」と中野さんの言葉である。

給料を全額寄付のかげに

今日でもとても考えられない「給料を全額ホームに寄付する」行為を20年余もつづけてこられた渡辺さんも偉かったが、これをみとめ、だまって生活を支えてきたきよ子夫人もすばらしいお人柄である。遠い親戚で許嫁だった夫人は渡辺さんの応召中の銃後を守るために東京の女学校を中退して渡辺家をささえるのである。幼児期より尊敬していたひとのために尽くすことに終始するが「一度もケンカをしたことがない、あの人の考えは私の考えと一緒だったからケンカする種がなかった」と、まさに夫婦共唱で老人のお世話を天職とこころえて努力をしてこられたのである。

旅館が再び己のもとにもどり再スタートするとき「無から有を生む」気概をこめて「いずみ荘」と名づけた、という。買いもどす金がないのに銀行が信用貸しで用立ててくれたのも、それまでの夫婦のひたむきな生き方がなによりの担保となったのである。

富士見学園も雇用

いずみ荘になってからも県内福祉関係者の研修や会合の常宿であった。県社会福祉協議会主催のブロック会議などはいつもこのいずみ荘が会場だった。厚生省の高官のなかにも「若いときよくいずみ荘にお世話になった、あのお風呂が印象にのこる」となつかしまれる方がおられる。これまでの福祉従事者の休養施設としてのつながりだけでなく、福祉関係者といえば商売ぬきで協力する夫人のあたたかい心があった。あたたかい心といえば夫人は昨年(昭和59年)精神薄弱者更生施設富士見学園創立20周年記念式で感謝状をうけている。学園の卒園生を雇い大事に世話をしてくれた功労を賞されたのである。今も2人、下足番や酒かんの役をひきうけ立派に役割をはたして働いている。住み込みでよくつとめてくれる、我が子より可愛いい、と夫人のさりげない語りのなかに幸せな2人の卒園生の生活がうかがわれる。「主人の心をうけて」生きる夫人の姿勢は実に若々しく立派である。

武者小路実篤の定宿

いずみ荘は武者小路実篤の定宿であったことを付記しておきたい。昭和の初めに来浴して以来、長岡温泉の一号温泉である元湯が彼の軽い神経痛によくきいたこと、なによりのんびりすごせる荘の雰囲気を賞めて一年の半分をすごす年がしばしばだった。代表作である「愛と死」などはこの宿のなかでうまれたことは良く知られている。今もいずみ荘の玄関には「迎萬客 為渡辺君 実篤」と大書した額がかざられている。

敬老の日制定に努力

渡辺さんが夫人の手をとって大いに喜んで話をしてくれたことが2回ある。

その1つは「敬老の日」が制定されたときのこと。県養老事業協会や社会福祉協議会の会合で老人の幸せのためにと何度も提言し、ついに全国社会福祉大会においてとりあげられ、国の祝日とされたときのことである。これで日本の老人のために世の人々が考えてくれる機会ができる、と本当に喜ばれたというのである。

その2つは湯の家移転新築のときのこと。老人のために4人部屋に茶の間をつくることと2階からスロープをつくり体の不自由な老人が歩きやすいようにする設計が、ぜいたくだと認めてもらえず、何度も県や関係機関に足をはこんだ。どうしてもだめなら辞めさせてもらう覚悟で最後の要請にでむいてようやく了承をうけて帰ってきた日の顔は仏さんのようだった、と夫人は語っている。今、陽光のまぶしい畳の茶の間で老人達はたのしく茶をくみ話しあい趣味の人形づくりなどにとりくんでいる。これは今でも老人ホームのなかで、老人のプライバシーを大事にする様式としてユニークさを評価される立派なものである。入荘以来30年をすぎ尚90歳をこえる長寿をたのしむお婆さんが元気でいるのも、この辺に大きな誘因があるのでは――と服部寮長さんが話しておられるのである。

地域老人との交流も

いずみ荘を町の老人に開放して、無料で温泉に入り、大広間で演芸や福引きを湯の家の老人と共にたのしんでもらう行事を毎月1回実施してきている。当日は家族、従業員あげてサービスするのである。渡辺さんの姿勢に学ぶ従業員はだれもがいやがらずに老人のお世話をするので老人達はたのしみにして参加するようになる。このなかから町の老人クラブも生まれ、渡辺さんの指導で活動も充実した会に発展していくのである。いずみ荘の従業員のOB「いずみ会」が、毎年開かれ夫人をかこんでなごやかな親睦の場がもたれるのも長いことつづいてたえないのである。

今、夫人は三人の男の子を立派に育てあげ、あとをつぐ三男とそして「お母さんのようになりたい」とはげむお嫁さんとの協力でますますの荘の発展をめざして元気で働いている。「主人の徳をいただいて私は幸せです」とにこやかに玄関に立つ夫人の姿は30余年の苦労の歳日を感じさせない美しさである。

やぐらで施設開放

湯の家には立派な組立て式のやぐらがある。

町のなかにとけこんでいて少しも違和感をもたせない老人ホームであるこの湯の家では町内の夏祭りの会場になるのが常であった。

そのときにこのやぐらが大きな役割をにない、地域の老若男女がともにこのやぐらをかこみ踊りの輪をつくるのである。勿論湯の家もその輪のなかに入っていく、この日は服部寮長もボランティアの娘さん達と一緒にわた菓子づくりに汗を流す。やぐらは時に近隣の町内の祭りに借用申しこみをうける。これらはずっと渡辺さんの時代からうけついできているのである。

長い間病床につき意識もたしかでない時期に入っても渡辺さんは夫人の声にだけは反応し、ニッコリほほえんだという。医師も驚く生命力で6年間ももちこたえ、夫人に心の準備ができるまでまっていてあげた渡辺さんは、生涯を幸うすき老人のためにささげつくして昭和58年10月31日、70年の人生を終えるのである。

老人と共に生きることを天職(夫人の言葉)とし、ただひたすらその福祉のために己のすべてをささげた先人の自己犠牲の愛の姿にすこしでも学んでいかなければ――との願いをこめ、渡辺さんの霊に心から合掌してペンをおきたい。

※ この文書は昭和60年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(志田 利 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )