File12 坂下 平八 氏 Heihachi Sakasita

プロフィール
オヤジサン的民生委員〜物好きでなければ社会事業はできない〜

おいたち

祖父南部伝兵衛は、三重県伊勢の国で藤堂家に仕え、南部七家の旗頭として三百石を領し、質実剛健の士として名高く、長州征伐の折には、馬上十六貫の鉄棒をかい込んで遠征し、武勲をたてたと語りつがれている。

廃藩置県後磐田郡光明村に移住、茶の植樹の心得があったので、浜松、二俣方面の茶業者に栽培技術を教え、三方原台地に茶を植樹して成功した島喜造氏故加藤忠七郎氏等から先覚者として戦後聞かされて、他人からかくされた面を知らされた。

平八郎(戦後平八と改名)は、明治19年6月光明村山東279番地に父伝兵衛母とよの四男として生まれた。

生来、神童の誉れ高く、各方面から養子に望まれ、特に時の大隅光明村長からいたく可愛がられ、養子にと切望されたが、明治40年12月10日浜松市鍛冶町で板金業を営む坂下兼吉の養子となった。

祖父伝兵衛の躾はまことに厳しいものがあった。その一例として、平八郎が4歳の折、使いに出され、買物のおつりが3銭あり、子供心につい誘惑に負けて買い喰いしてしまったことが知れ、祖父は烈火の如くに怒り、座敷から裏の二俣川(崖下1丈余)へほうり込まれてしまった。

恐らく他人は無謀な親と思われるかも知れないが、祖父の気持ちは、悪事は「小さいうちにつめ」の諺を涙をふるって実行したのであって、平八郎が幼くても泳ぎがうまく溺れる心配はないことを承知でしたのだと、後々まで話の種であった。

このことが、幼い子供心にも生前の生き方の大きな教訓となったようである。

平八郎は、小学校時代常に首席を通し、5年の時には、生徒の総代を務め、先生の代勉もさせられた。

光明村長のところへ養子に行っていれば、中学以上の学校にも行かされ、別の方面の人生を歩いたことであろう。

養子先の養母は「法華のお松」と云われるほど、日蓮宗に傾倒し、毎年寒行には、女だてらに先達をつとめ、ウチワ太鼓を打ちならして浜松中を歩いたほど女傑であった。

平八郎が信仰心が厚く、世帯を持って以降身延山、中山の鬼子母神、法多山等月参りを欠かさなかったのは、義母のあづかるところが大であったと思われる。

妻は、二人の子供を置いて若くして病死したため、養父母を栄町に隠居所を建築し住まわせ、磐田郡掛塚の長谷川はまを後妻としてむかえ、砂山町に移住しながら、養父母の面倒を見た。
(当時、鍛冶町の家にあったお稲荷様が現在こぎくの裏におまつりしてある。)

板金業の腕が良かったことと、生来の男気が大手の建築業者に認められ、専売局、国鉄、旧児童会館等大きな官公署の建設のほとんどを手掛け、旭氷糖菊フィルム等と常雇傭を結び、内弟子の外職人十数人が常時徒食し、盛況をきわめた。

社会福祉事業への道

大正10年4月、浜松市消防組第5部長(砂山町)となり、専売局、油屋旅館の大火等には、大火傷にも屈せず鎮火につとめ、大正12年3月静岡県警察部長消防部長現場功労証書防火功労証書を受けた。

その年5月、県から方面委員を委嘱され爾来44年死去するまで務めることになった。

その最初の県の担当係が、後の浜松市長、平山博三先生であったことが、労働部長を最後に浜松市助役となられたのがきっかけで、浜松市の有識者と相計って市長に推し出しに成功することになった。

父はこの人と思ったら、とことんまでやる性分で、戦前、政友会の倉元要一代議士に献身し、兄弟のような交わりをしたことが、先生が逝くなられ、東京の東本願寺で党葬がおこなわれた折、中島知久平総裁の葬儀委員長が「坂下君は生前故人と一番親しかった友人だから、友人代表の弔辞をやってくれ」といわれ、中島先生に次いで、弔辞をのべたことも父の最も忘れられない思い出の一つとなった。

知事選でも斎藤寿夫先生一本槍で通すなど、だれが何と言っても節を曲げずに通した頑固者であった。

昭和の初期は、不況のどん底で「大学は出たけれど」の流行歌が風びした時代で、失業者がはんらんし、毎日、行路病人、旅費欠者が数人から十数人家へ立ち寄り、父か母がその人達に、当時の金で50銭から5円位まで、相談にのりながら渡していたのを、昨日のように思い出す。

家の近くに十数軒の長屋(両側)があり、お多分に洩れず、入居者の大半は喰うや喰わずの生活をしておるのを見兼ねて、自費でこの長屋を買い取り、2年間、米、味噌類を毎日とどけていた。

市では、いくら方面委員でも個人で何年も奉仕させるのは申し訳ないとして昭和13年に市が買上げ、砂山町母子寮と名づけ、父に母子寮長を委嘱しその後2年ほど続けられた。

昭和5年だったと思うが、北寺島町にAという大工さんが住んでいた。

家も二階建て50坪程の立派な家に住んでいたが、不況のため生活も苦しく、年中夫婦喧嘩も絶えず、その度に夫婦のどちらかが家へ泣きついてきた。しまいには父もさじをなげて、「そんな喧嘩ばかりしているのなら、ブラジルにでも行ってしまえ」とどなって帰したところ、家へ帰って妻子と相談した結果ブラジルへ渡る決心がついたが、先立つものは旅費ということになった。

又々、父に相談したところ、この家を3千円で買い取るとに決まり、移民手続等一切の面倒を見て、無事ブラジルのサンパウロ市へ移住することができた。

何が幸いになるか判らないもので、この一家はブラジルに渡ってから、家を売った半分で土地を買い、お礼奉公の3年を無事済ませて、大地主となるとともに、大工の職も大いに役立ち、移民成功者の一人となり、現在でも二世、三世が活躍しているということである。

方面委員拝命後は、昭和7年救孝委員、国勢調査員、物価監視員、公職適否審査委員、勤労署常任委員、司法保護司、浜松市公安委員会等々戦前、戦後を通じて、民生、商工、労働、司法、保健、等々各分野に亘る公職の委嘱も40余に及んだ。

特に、昭和23年浜松市公安委員当時、小野組と在日韓国人との大乱闘事件が発生した折、警察にて陣頭指揮をとり、通行人や両者間に若干の犠牲者が出たが、大事に到らないうちにおさめたことは、不幸中の幸いであったと、後々まで忘れられない思い出となった。

広汎な社会活動

昭和13年に浜松板金工業組合理事長、県板金工業組合常務理事(理事長は藤枝の大塚甚之助氏)、昭和16年浜松板金工業株式会社を設立社長となり、軍需工場として貢献したが終戦までに空襲により2回会社が全焼した。

戦後、浜松板金有限会社として、小人数で再出発したが、昭和23年類焼にあい、解散した。

遠州仏教積善会が世相の混乱悪化に対処するため、更生施設を復旧することになり、父も理事長として、九代木全大孝会長に協力して昭和22年、22坪小規模の建物を建設、26年に250坪の収容施設の建設を計画、27年完成、慈照園として大きく発足した。

36年12月木全会長逝去した後、十代会長に推され、爾来十年余死亡まで会長を務めることになった。

戦争は真に大きな犠牲をしいるものである。

満州の引揚孤児もその例に洩れない。井上哲雄先生が、戦後、満州の引揚孤児を多数つれて引揚げ、館山寺に擁護施設「子供の家福音寮」を設置しその更生につとめられたが、26年東京の施設を引継ぐことになり、その後の運営を父にまかされることになった。これが清明寮(児童収容施設)へ打込む契機となった。

27年に、浜松市新橋町の土地を県が買上げここに移転し、社会福祉法人葵会理事長として、清明寮の運営に当り、47年2月死去するまで、20年間に亘りその職を遂行した。

又、昭和37年、恩賜財団同胞援護会弁天島同胞寮(母子収容及授産事業)の山形春人寮長が逝くなられた後を、県から運営を委嘱されたが、当時授産の仕事も少なく、経営困難のため、浜松市浅田町へ移転し、浅田ホーム(母子収容施設)の理事長として再出発、生存中勤めを果した。

その他、浜松身体障害者授産所、浜松児童福祉園、済生会、浜松技能習得所等、理事長、理事、運営委員長等に推されたのも、これら施設設置の上で、土地取得が最大の難関であったことが、その広汎な人脈から次々と解決できたことが、その要因であったと思われる。

浜松市民生委員協議会総務連絡会長、浜松市社会福祉協議会長を始め県の要職にも名を連ね、表彰歴は、故正六位勲五等、勲五等双光旭日章を始め、更生大臣、静岡県知事等数限りない表彰、感謝状を受けたことは、一民間人として最高の栄誉であったこととめいすべきである。

オヤジと慕われ

これはかつて県職員として民生委員の指導にあたった友人の青島韶氏から聞いた話だが、保護司をつとめていた関係もあってか、刑余者の保護はもちろん、傷害事件等をおこして警察の世話になっていた若者たちをひきうけて、何日でも家におき飯をあたえあそばせておいた。近所の人は枕を高くして寝れないという批判もあったが、時には十数人にもおよんだということだ。生活を共にするなかで多くの若者が立ちなおっていった。と話してくれた。青島氏が話を続けて、しかし坂下さんの一番の功績は方面委員時代からつづいた民生委員活動だった。

清明寮などの施設の設置運営も大きな仕事だったが、坂下さんのうまれながらの性格が民生委員向きに備わっていたようだ、と。そしてその包容力、実行力、理解力、判断力が群をぬいていた。だからこそイレズミ入りの若者や、多くの県下民生委員から「オヤジサン、オヤジサン」と慕われていたのだ。

坂下さんは早くから県民生委員協議会長に推されていたが、本人はがんとして断わりつづけた。その理由は、県民協会長というポストは県の端の方に住んでいる人間がやるべきではない。急用があっても即応できるように中央からだすべきだ、という信念を貫き、ついに会長をひきうけず終った。昭和40年には春の叙勲をうけたが、それより10年早く藍綬褒章を授与され宮中に参内している。坂下さんは私にとってもオヤジのような存在だった。オヤジは時にはジョークをとばす、いわば下町的人格者で、上層の人から信頼され、下層の人からは親しまれた不思議な人物だった。葬儀は清明寮でおこなわれたが、お礼をうける方の僧侶(50人ほど出席した)が全員香料を贈呈したものだった……と青島氏の語られたなかからの要旨を付記しておきたい。

「社会事業は物好きでなければできない」であり「民生委員は無報酬の報酬」の信念を最後までくづさずに生涯をとじた頑固さが父の真骨頂と云えるだろう。

あとがき

私は、この世の中で一番父を愛し、最も尊敬した。父は他人から見れば、いろいろ批評もあろう。たしかに、強者に対しては、はばからない面も多々あったと思う。

しかし、弱者に対しては常に、その人の身になって真剣に考えた。家族特に子供達には甘かった。そんなことが、子供たちを駄目にしてしまったのだろう。

父は生前「私は自民党をおしたが、やってることは共産党だ」と言ってはばからなかった。

年をとるにつれ、母は父とよく口喧嘩をした。

それも生前五年位前からで、二人共病弱になってからは激しくなった。しかし、母が死んで葬儀の折、一人二階で意識不明のまま寝ていた父の様子を見に行くと、目から涙がぼろぼろ流れていた。

その三日後に、後を追うように父も息を引き取った。やはり夫婦仲は本当によかったのであろう。

※ この文書は昭和59年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(葵会理事長 坂下 八郎 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )