File28 井深 八重 氏 Yae Ibuka

プロフィール
神山復生病院看護婦~日本初のナイチンゲール章受賞者~

<落葉の地で>

秋が深くなると、いつも訪ねてみたいと思う所があった。それは観光地でもなければ、人が競って集う所ではない。御殿場市神山、黄瀬川添いにある、昔らい診療所と人の胸に特別な響きを持った言葉で呼ばれた、復生病院という静かな地である。

広大な構内には、百年の歴史を感じさせる樹林があり、常緑樹と共に、くぬぎや、楢や、栃の木や、榎、けやき、楡などの落葉樹木も多く見られる。色づいた葉が、晩秋から冬にかけて落葉する様は、いかにも美しく、忘れ難い風情である。

私がこの景観に心魅せられたのは、いつのかの初冬であった。構内の小道を歩いていて、私は「天然の心ゆたかな無雑作に 散るよ 落ちるよ 雨と降るよ 林いちめん」という、高村光太郎の「落葉を浴びて立つ」経験をしたからであった。

この佳景の地に、嫋やかな若き日から70年の長きに渡って過ごし、1989年5月15日、91年の長寿を全うして天に召された一人の女性があった。井深八重さんその人である。そのさまは、天主が創り、そうしてとり拾うた、最も美しい落葉であった。

私が初めてこの婦人に出会ったのは、1946年の夏であった。復員兵姿の私が、復生病院で看護婦として働いていた姉を、訪ねた時である。姉の上司であり庇護者でもあった井深八重婦長は当時48歳、小柄ではあるが若き日の美貌を残した、知的で清楚な婦人であった。初対面の挨拶も、今も心に残っている。

「ご無事で良かったですね。お姉さんは本当に心配をしていたのですよ・・・・・・」温かく包みこむ様な優しい笑顔であった。

この一文を書くことになったのも、その縁の故である。

<献身が定まったとき>

彼女が看護婦としてこの地に留まるに至った訳は「数奇な運命」と言う言葉では表せない、激しい劇的なものであった。引用が長くなるが、彼女自身の言葉を聞く事にしたい。

「私が、こちらに参りましたのは、大正8年の夏、丁度、ドルワル・ド・レゼー師が五代目院長として就任されてから2年目の夏でした。何処へ行くとも教えられぬままに着いたところは、何となく、うす気味のわるいこれが人の住家なのだろうかと思われるような、木立に囲まれた灰色の建物が並ぶ一角でした。やがて木立の間をゆくと、一軒の洋館があって、通されたのは院長室でした。黒のスータンに白髪温顔の外人は、初めて見るカトリックの司祭でした。『私が院長です』と挨拶され、付添いの伯父伯母との会話の中から、ここがらいの病院であること、そして私が何の為にここにつれて来られたかを、初めて知った時の衝撃! それは、到底何をもっても、表現することはできません。」(創立90年誌『踏跡』35Pより)

同志社で学び、長崎の女学校で教師をしていた彼女にとって、昨日までの住みなれた生活環境とは余りにも隔たりのある現状。それは悲痛な驚きであり、恐怖に怯える毎日となった。

「誰にも極秘の中に消えるように去った私でしたが、その居所を求めて友達や教え子からの手紙の束が回送されてくるたびに、私はその一つ一つをくいいるように読みふけり、人の心の温情に流せる限りの涙を流して、みずからの慰めともして幾夜かを過ごしました。その後親せきの者たちも、私を不憫に思ったのでしょう。病院当局の許可を得て私の為に一軒の住居を建ててくれました。」

しかし彼女は、泣き暮れていただけではなかった。次第に自分の置かれた不条理な環境を、確かな目で見据えて行くのである。

「当時のらい者は今日では到底見ることの出来ないような重症者の多い時代でしたが、そんな中で同胞さえ、親兄弟でさえ、捨ててかえりみないこのような病院のために、地位も名誉も学問、財宝などすべてを捨てて、この子等の為には如何なる苦難もいとわぬ迄に捧げ尽くされた宣教師達、そして今、眼のあたりに見るドルワル院長の人柄に私はすっかりうたれていました。」

暗夜をへての払暁は、心の中だけではなかった。ドルワル院長は彼女の病気に疑いを持ち、当時世界的にも有名であった皮フ科の権威、土肥慶蔵博士に精密検査を受けるように取り計らってくれた。結果は幸いにも「らいにあらず」と言う診断で、その証明を受けることができた。

「ドルワル院長は非常に喜ばれ、おっしゃるに『あなたがこの病気でないということがわかった以上、あなたをここにおあずかりすることは出来ません。あなたはもう子どもではないのですから、自分で将来の道をお考えなさい。もし、日本にいるのが嫌ならば、フランスへ行ってはどうか。私の姪が喜んであなたを迎えるでしょう』とまで言って下さいました。

然し、私の心は既に定まっておりました。今自分がこの病気でないという証明書を得たからといって、今更、既に御老体の大恩人や、気の毒な病者たちに対して踵をかえすことが出来ましょうか。私は申しました『もし許されるならばここに止まって働きたい』と。 レーゼ翁は、私のこの希望を祝福して受け入れて下さいました。」

決心した彼女は先ず医師になる事を考えたが、その頃でも少なくとも5、6年は要するので、病院が今、一人もなくて困っている看護婦になろうと考え、速成科を選んで資格をとった。この時、井深八重さんの献身の生涯が定まったのである。

<身を削って>

その後彼女が、筆舌につくし難い困難の中に身を置いて、ただひたすらに患者のために献身してきたか。これは知る人ぞ知るであって、苦労話として彼女の口から語られる機会は、全くなかった。然し復生病院は、その歴史の節目に、特別に大きな存在としてその功績を称えている。

「井深八重看護婦長はらいと誤診されて復生病院に来院しましたが、あらためて精密検査の結果誤診であったことが確認され、逆に看とるものとして患者達の心の支え、病院の光として励むこと50年、昭和34年、創立70周年の記念にはヨハネ23世教皇から『プロ・ポンティフィチェ・エト・エクレジア章』を36年にはジュネーブの国際赤十字本社から『ナイチンゲール章』を更に41年には、天皇様から『宝冠章』を授けられました。これは婦長個人の光栄ばかりでなく復生病院にとっても大きな喜びと栄誉でありました。」(『創立80周年を記念して』29P)

90周年誌には、湯川智院長は、記念誌のはじめに、次の様な言葉を贈っている。

「歴代の院長をはじめ、職員の方々の献身的な奉仕により、らいという重荷を負わされた孤独な病者の心の支えとなり友となって、共に復生の精神を伝えていくことができたのであります。特に井深八重姉は二十代の若さで膿汁にこわばった包帯の洗濯から傷の手当てに看護婦として献身され、祈りの人であり、またオルガニストとしても聖歌の伴奏をするなど、豊かな才能を病者のために、毎日を神の摂理に委ねた奉仕は協会及び国家からも賞賛されました。」(創立90年記念誌『踏跡』)

更に100周年記念誌は、次の様に感謝の言葉で近況を伝えている。

「復生病院にとって初の、そしてただ一人の看護婦となった井深さんは以来12人の院長の片腕とも、また病者の母ともなって生涯を病者にささげ、今は静岡に余生を送っておられる。」(『神山復生病院の100年』春秋社刊、109P)

ところで患者として56年の長い付き合いをした、全盲の歌人坂田泡円には、この様な歌がある。

患者より高くなりたる看護婦の平均年齢思ふに堪へず

人手がない人手がないといはるるたび

つらくし思ふ盲ひとなりて

こんな慢性的な介護者不足の中で、病んで倒れた時に患者達の心痛も深かったようだ。

車椅子に乗りてたづね来たまひぬ

半年ぶりに井深婦長は

それだけに、この歌の悦びが惻々と胸に伝わってくる。(坂田泡月歌集『盲杖』短歌新聞社刊より)

井深婦長は前述の表彰の外に、昭和52年朝日社会福祉賞を受賞している。また母校同志社大学から名誉博士号を受け、かつてアメリカのタイムスは、マザーテレサに続く「日本の天使」と紹介したという。かくの如く、社会事業、医療事業に携わった人間として、最高の栄誉と数々の褒賞を受けた人物であった。しかし彼女の生活は、晩年、死に至るまで、しばしば見られる頽落、「社会奉仕者の華やかさ」とは全く無縁であり、それは謙虚などと言う言葉で表現できない。静謐と清閑に彩られていた。

私の姉は現在71歳であるが、看護婦として井深婦長の下にあって45年、同室で起居を共にする様になって44年を経ていた。老齢となられた井深さんのご面倒を見る事が、姉の最後の報恩となったが、そういう家族以上の間柄であった。私がたまさか姉を訪ねた折、必ず共にして下さる井深さんから受けた印象は、一切を捨てて「捨て果てたところにある満たされたもの」という逆説こそが相応しくおもわれたのである。二人の生活環境は、弟の私が悲しくなるほど、最後まで質素だった。

<み摂理のままに>

福祉病院は明治20年、パリ-外国宣教会テスウィード司祭以来、カトリック教会の仕事であった。従って日本の敗戦前は代々司祭が、昭和22年クリスト・ロア宣教修道女会に移管されてからはシスターが院長として事業の責任者であった。前述の如く、井深さんは実に12代の院長に仕えたのである。

更に病院であるから医師の病院長がいる。看護婦であった彼女は、当然病院長の指示と管理に仕えたのである。

彼女は復生病院の歴史を歩んできた証人であり、数々の褒賞により病院を代表する人物ではあったが、オーナーではなかった。あくまでアシスタントとして終始した。院長に仕え、病院長に仕え、何よりも患者に仕えた。

井深婦長を表現するに、「仕える」と言う言葉以外に至当な語句は見出せない。

褒賞を受けるたびに、誇りと思えず、重荷とさえ思われたのではないか。顕彰を整えてくれた人々への感謝と、それが少しでも病院ひいては患者のために役立てばと言う気持ちしかなかったのではないか。井深さんには褒賞は似合わないと言いたくなるほど彼女は人に「仕える」人であり、そして「神に仕える」真の信仰者であったと思う。

井深婦長は自らを語る事の少ない人であった。資料として残った活字も意外に少ない。唯一まとまったものは、復生病院90周年誌『踏跡』に掲載されている「道を来て」と題した23頁になる文章である。その最後を彼女はこう結んでいる。

「病者も治療すれば必ず治る時代となり、入院者数も減少の一路にある現状であります。永い歴史の中で、過ぎし日の貧しかった時代を思うにつけ、病者としては、それぞれ人知れぬ悩みはあっても、この新しい時代に、クリスト・ロア会の管理のもとに、何不自由なく療養のできることは、幸せであり、感謝であると思います。

今ここに、過ぎし日の思い出を辿り、み摂理のままにと歩み続けた一つの道を記して『道を来た』むすびといたします。」(52P) 一つの道を、み摂理のままに歩み続けただけだ。その「道を来た」だけであったと。彼女は淡々と語っている。

み摂理のままにと思いしのびきぬ

なべてはふかく胸につつみて

彼女の作である。

<影響をうけた人>

井深さんの生きざまに触れて励まされ、深く考えさせられた人々は多いのではないか。

阿部志郎(横須賀キリスト教社会館館長)はこう語っている。

「学生だった戦争直後のころ、社会は一つの集団で、その中にいる一人の人間の力は無力だ、社会そのものを変革することが先だ、と私は考えていた。その中で卒業前の夏休みに、静岡県御殿場にあるハンセン病療養所・神山復生病院を訪ね、看護婦が感謝の包帯を換えているところにでくわした。患者には髪の毛がなく、目も鼻もつぶれていた。私に気づいたその看護婦はだまって会釈したが、私にはその姿がどうしてか美しく写った。包帯をまいているダイナミックな行為とおだやかな顔のコントラストが心に焼きつき、『わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、即ち私にしたのである』という聖書の言葉の意味がこの時わかった。社会は集団に違いはないが、その中にいる一人の幸せが確保されることなくして社会の幸せはあり得ない。そう直感して私は社会福祉の道へ進むことを決心した。

この見ず知らずの、言葉も交わさなかった看護婦が私の人生を変えたのだ。8年も後になってその人が誰かを知った。井深八重さんが、その人だった。」(キリスト新聞、89年6月10日号)

その後阿部はしばしば井深さんを訪ね、教えを請い影響を受けてきた。「私は、1948年に井深さんの優しく、気高い看護の姿に心うたれて福祉の道を選んで以来、敬慕の念を抱きつづけてきた。だれしも、井深さんの清烈な人格に出会えば魅せられたにちがいない。井深さんは人の徳を讃えて、自らを語らぬ人だった。厳しく自己を抑制しながら、病者も訪問客もわけへだてなくいつもニコニコと温かく包みこみ、美しく上品な言葉で接した。」と、今は亡き人を懐かしく語っている。

『死海のほとり』を見ると、遠藤周作は学生時代に御殿場神山の復生病院から、大きな影響を受けた事がうかがわれる。もし遠藤が井深さんの存在を知らなかったら、あの「愛」に生きる人間の姿を、強烈な印象をもって描きつくした『わたしが棄てた女』は生まれなかったに違いない。

井深さんの文章には、昭憲皇太后、貞明皇后以来今日に至る、いわゆる皇室の御仁慈がしばしば述べられている。井深さんが天に召された時、高松宮妃殿下が早速弔問され、ご遺体と対面された。その時の写真を姉が幾枚か届けてくれた。改めて井深さんと皇室との縁(えにし)の深さを首肯することができる。

しかし同時に頂いた『神山復生病院の100年』に載っていた一枚のカラー写真が、より私の眼を引き付けた。構内の紅葉の樹林の写真で、こうコメントが付してある。

「めぐみの森に秋がくると大木は一斉に紅葉して、その美しさは私たちの心にやすらぎを与えてくれる。散り敷いた落葉は大地を覆い、すべてが輝いてみえる」

私はこの写真を眺めていて、落葉した樹の傍らに佇むありし日の井深さんをしっかりと思いうかべたのである。

お元気の折頂戴した色紙は、骨太にしっかりと書かれた井深さんの墨跡である「一粒の麦」私もまた彼女の影響を受けた一人であった。

(山浦 俊治 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )