File31 寺田 銕 氏 Tetsu Terada

プロフィール
社会福祉法人明光会創設者~県愛護協会初代会長~

<はじめに>

本年(平成2年)は精神薄弱者福祉法施行30周年を迎える。この間、県内の精神薄弱者の福祉は飛躍的に増進し、当時数えるほどしかなかった施設の現在では75を超える施設ができ、その他、県独自制度の小規模授産所や生活寮も目を見張るほど整備され、その他の在宅施策も充実されてきている。

ノーマライゼーションの考え方の進展に見られるように精神薄弱者の福祉は、他の福祉の分野におおきな影響を与えてきた。これは、先人や関係者の営々とした努力の結果であろう。在宅福祉と施設福祉が互いに密接に連携し合い、地域福祉を形作ることを求められている今日、本県の精神薄弱者福祉の原点を探ることはおおきな意味があるものと思われる。

本県精神薄弱者愛護協会の初代会長で、わが国最初の精神薄弱者の総合施設である安倍学園・安倍寮の創設者である寺田銕の事跡を、残されている資料をもとに、たどる事にする。

<教育者としてのスタート>

寺田銕は、遺稿となった回顧録『わが家・わが生涯』を残している。これによると、明治35年12月1日の朝、現在の袋井市宇刈1048番地(旧周智郡宇刈村137番地)で父琴次、母あいの3男として生を受けた。銕の父は、当時の宇刈村の村長であった。母あいは銕6歳の時に亡くなり、その後は後添のたつに育てられた。

大正12年、県立中泉農学校を卒業後、浜松師範学校に進学、大正13年同校を卒業した。周智郡三倉尋常高等小学校に赴任したが、向学の志止み難く、東京に出て、教師としての仕事に就きながら、昭和4年豊島師範学校専攻科(現在の東京学芸大学)及び日本大学専門部法律科を同時に卒業し、更に昭和17年中央大学経済学部を卒業した。幅の広い見識はこの時に培われたものであろう。理科・社会の中学・高校1級免許状、小学校教員の免許状を持つ等専攻教科の分野も広くまたがっている。

終戦の年である昭和20年3月、旧制都立第8中学校(現在の都立小山台高校)から、県立見附高等女学校(現在の磐田北高)に転任、終戦間もない郷土の混乱期の女子教育に尽力した。

<県教育委員に就任>

昭和25年11月、戦後初めての公選制による教育委員に立候補し当選、約6年に渡って教育委員を務めた。この間、県内の精神薄弱児の実情をつぶさに視察し、精神薄弱児の教育について大きな問題意識をもった。

当時の特殊教育は、まさに草分けの時代であり、昭和25年に県下初めての特殊学級が島田中学校に設置されたばかりであった。非行少年の40%は精神薄弱児といわれていた時代でもあり、適切な教育の機会を受けられずに、社会的に不適応な行動を起こす人々も多く見られたであろう。

また、昭和26年には、戦没将兵や、傷痍者となった人々の子弟のための静岡県独自の奨学制度である社会福祉法人静岡信和会(後の静岡県育英会)の設立事務を担当、法人設立後は、常務理事に就任した。この事務局が県民生部児童課にあった関係で、福祉行政についても大きな関心を持ち、福祉行政と教育行政は互いに密接なもので、表裏一体の関係でなければならないと考えるようになった。

<精神薄弱者施設の決意>

この経過は、昭和36年5月に行われた第1回の法人役員会の議案に詳細にまとめられているので、一部引用する。

『昭和25年、静岡県教育委員会は、精薄教育の必要を痛感し、特殊学級1を公立島田中学校に設置した。私は当時県教育委員の1人として、事務局から県内精薄児の実態を聴き、教育の民主化、機会均等のために、今後大いにその増設が必要であると考えた。昭和26年、私は斎藤知事の委嘱を受け、社会福祉法人信和会(後の育英会)の設立事務を担当することとなった。(中略)昭和27年、信和会は社会福祉法人となり理事会が組織された。会長には日銀政策委員の中山均氏、副会長は副知事が就任され、私は常務として日常会務をみることになった。この会の事務所は県民生部児童課内にあった。(中略)私が福祉行政に関心を持つようになったのは、こうした機会によるもので児童施設のことについても、ここで大いに啓発される所があった。」

「私はこのような事情から福祉行政と教育行政とはあらゆる意味において、相互に重なり合い、裏腹の関係にあることを知ったが、就中、精薄施設は一般の学校と非常に類似していることから、特に親しみを感じた。私は教育雑誌等に福祉行政と教育行政の関係や、福祉のための機関や、施設のこと等を解説した。同年、私は県児童福祉審議会委員となり、児童福祉行政や施設の実情をつぶさに見聞する機会が与えられた。そして、近い将来、私の生涯の仕事として、精薄施設を設立し、精薄児の教育に当たろうと決心した。」

30年余の教育者としての経験は、自らの教育理念を発揮する場として、精神薄弱者の一貫教育を目指した施設設立を思い立ったのである。

<用地の確保に向けて>

教育委員の任期が終わった昭和30年秋頃から施設造りに取り組み始めたが、用地の確保はかなり困難であった。前掲資料によるとおおむね次の経過である。

「昭和30年、私は6箇年に渡る県教育委員を終わり、(中略)静岡日々新聞社の設立に参加し、(中略)私と同様取締役に就任された駿府病院長、溝口正氏を知った。昭和31年、駿府病院長は、静岡市長沼に新病院を建築することになった。(中略)沓谷の旧病棟の今後のことが話題になった際、病院長は、もし使い道があるなら無償で提供しようと言われた。私は、院長のご厚意に感謝し、旧病院を改造して、私の年来の懸案である精薄施設を建設しようと考えた。早速、斎藤知事を公舎に訪ね、この由を申し上げたところ、県知事は私のこの計画にご賛同くださったのみか、多いに激励して下さった。そして、顧問になって欲しいという私の願いを快諾された。この時、県知事は何気なく「人間は、あの人は何をしているかというような、何か、仕事が欲しいものだ。この意味で今度のことは、仕事自体もよいし、あんたのためにも良いことと思う。」と言われた。私はこのとき受けた感銘を生涯忘れまいと思う。』

こうして用地確保の目途も立ち、施設名も谷津山学園として、法人認可の準備、駿府病院の改造計画も決定され、県の当初予算にも設立費(改造費)300万円が組み入れられる等、着々と準備が進んでいた。

しかし、新駿府病院の建設が工事半ばで中止され、旧病院の敷地半分約1,000坪の用地しか残らないという状況になったのである。これに対し、当初の構想を貫こうという意志は固く、この資料にも、『私の基本的な考えは「精薄教育は、子供の時から成人になるまで永年にかけて、系統的な教育計画の下で、一貫した教育がなされなくてはならない。そのためには子供の施設と大人の施設の併置がどうしても必要」という点にあったからである。それには駿府病院の半分の規模では何としても実現は困難であった。私は谷津山学園の構想をいさぎよく放棄し、新しい企画で進むことにした。』とあり、児童施設の併設を何としても実現するという強い意志がうかがわれる。

その後、さらに土地探しに奔走することとなり、増井慶太郎氏の斡旋により、清水市梅ヶ谷の合同酒精の跡地を借り受ける契約が成立したが、地元の自治会に説明会を開いたところ、一向に理解が得られず、「女子供に悪さをしないか」とか「火付けをしないか」という反対の声に、ここでの施設建設は断念せざるを得なかったのである。

他にも、中藁科、駅南池田、瀬名、草薙神社付近、沼上等の候補地は上がったが、実地に当たると、地価、環境、面積、水、交通等の点で難点があった。当時でも、4,000坪ものまとまった土地はなかなか見当たらないのである。

ようやく、静岡市慈悲尾の地に用地を確保したのは昭和34年である。1人ひとりの地権者を説得しての困難な買収であったと聞く。資金は総て、私財を投入し、不足分は自らの借入金でまかなったという。

建物の建設費用については、当時の県共同募金会事務局長の秋口常太郎氏の協力もあり、中央共募の大口寄付の配分を2年連続して受けたが、自己負担もかなりの額に上がった。現在のように手厚い助成制度もない時代のことである。遺品の中に、建設会社に対する分厚い領収書の綴りがあった。毎月毎月の返済の跡に、感慨深いものがあった。後に低利の融資制度の創設(県社協の民間施設振興資金貸付制度・昭和47年)へ尽力したのも身をもっての労苦があったからこそと思われる。

<施設運営の理念づくり>

こうして念願の施設建設は成った。前述したように、児童施設と成人施設を管理棟を中心に両翼に配置し、相互の交流が活発に図れるように配慮したつくりである。開所は、安倍学園が昭和35年12月1日に、続いて安倍寮は36年3月1日であった。昭和35年は、精神薄弱者福祉法が施行された年であるが、施設建設の時は精薄成人施設の根拠法がなく、便法として生活保護法による救護施設として発足している。児童福祉法、生活保護法と法体系の違う2施設を複合させたことは、当時としては認められず、制度の壁にだいぶ苦心したように聞いている。寺田はここを本拠地として精神薄弱者の教育にパイオニアとしての功績を残した。

その一つに教育理念の構築と教育課程の体系化がある。当時は、精神薄弱教育の教育といえば、まだ板書スタイルが主流であり、単に普通教育のレベルを下げ内容を薄めたに過ぎないような内容が多く見られた。それに対し寺田は「生活する力」を育てることこそ精神薄弱者の社会復帰を考える上で欠かせないと主張した。これを、より具体的な形で提示し、「1.健康であること、2.良い性格の形成、3.身辺処理ができる、4.仕事を進んでやる、5.会話ができ簡易な読み書き、計算ができる」という5つの教育目標を提唱した。

方法論としては、米国のジョン・デューイの教育理論である未分化学習の方法を取り入れ、具体的な事物を体験することを通して学習するという方法を率先して取り入れた。昭和37年刊行した「安倍学園の教育」には「日常生活の内容は様々な事柄が有機的に関連しすることに留意し、身辺、健康、社会、作業、余暇、運動、表現、言語の各領域に基づいた指導を行うとともに、日課、学習、行事、その他の生活場面で、これらの生活領域を包括し、互いに関連づけるように配慮する。」とあり、生活領域に着目した教育課程の編成に意を用いている。精神薄弱者の教育は年齢により区切るべきではないという児者一貫の教育理念、今日でいう「生活単元学習」の手法の確立、他に、施設内に派遣学級を設置、障害児に義務教育の道を開くなど後の県内精神薄弱者の指導に与えた影響は大きく、まさに先駆的な試みであった。

昭和43年、これらの業績を評価され、県下初の精神薄弱児通園施設、静岡市足久保学園の経営を静岡市より委託されることになった。

また、昭和41年には、他県に先駆けて、県精神薄弱者愛護協会を設立し、会長に就任。基盤の弱い団体の事務一切を安倍学園に事務局を置き、組織強化と特に施設職員の資質の向上のための研修制度の充実に務めた。

<施設職員の身分保証・共済制度の創設>

寺田銕は施設経営を通して、施設で働く職員の身分の安定が、施設に良き人材を集め、施設の運営に欠かせないことを痛感し、施設職員の身分保証・共済制度を発案、その創設に尽力している。

その先駆けとなったものは、昭和27年の教職員の互助制度である財団法人日本教育公務員弘済会の設立である。会長の永井氏は弔辞で次のように述べている。

『現在日教弘の進めております4大事業の中、その根幹事業である共済事業の教弘保険は先生の卓越したアイデアに生まれ、発足当時は「幻の保険」と呼ばれ業界に注目を浴びたほどの高次な内容を持ち、保障と貯蓄の組み合わせを考案なされた先生の先見の明は30有余年を経た現在も見事にその実績を挙げ、この制度によって救われた数多くのご遺族を思うとき、さらに何千人におよび奨学生、教育の振興発展に貢献している教育研究事業と共に福祉事業である教育会館の建設等々偉大な功績を残されました。』この制度は現在50万人を超す教育関係者が利用している。

また、昭和43年には民間施設職員の待遇を改善し、人材を確保し、職務に専念できるようにと退職金制度をつくることに奔走し、昭和43年12月に「財団法人静岡県社会福祉事業共済会」を設立し副会長として会の発展向上に務めた。

さらに、社会福祉施設職員相互の互助組織の必要性を強く感じ、昭和48年財団法人日本社会福祉弘済会を設立した。理事長の渥美節夫氏(元厚生省児童家庭局長)は同じく弔辞の中で設立の経過を次のように触れている。

『先生はかねがね、社会福祉事業の振興は偏に施設に働く人々の福利の増進と連帯意識の高揚によると申されました。(中略)その信念からほとばしる先生の一語一語はことごとく私の臓腑を衝き、私は先生の宿念ご実現のために、社会福祉施設の方々のために全身全霊を捧げようと心に誓ったことでした。(中略)しかも、先生は創業主であられるにもかかわらず、敢えて、専務理事、副理事長に甘んじ、本会の管理運営、基盤の組成培養に心血を注がれました。」

このように、自助共済ならびに社会福祉団体・施設にたいする研究助成事業の先駆けとなる制度を作り上げた。現在では7万人を超す加入者をみている。

これまで数々の足跡を述べたが寺田の成した事柄は、施設の設立に止まらず、運営理念・教育方針の確立、人材の育成並びに確保という一つの体系、組織を形づくったのである。戦後のまだ慈善的な雰囲気を抜け出せないでいた社会福祉事業をより、システマチックなものにしたといえよう。このことが、現在からみての一番の功績ではないだろうか。

<おわりに>

最後に、寺田銕の人となりに触れ、この稿を閉じたいと思う。元県知事斎藤壽夫氏は自ら筆を取られた「回顧」の一節、「想い出の人々」で次のように著している。

『教職員組合委員長として、よく団交相手方として、総務部長時代出られお互い苦労した。じっくりとした人柄で、労組によく見られるハッタリと駆け引き等は全くない誠実な人物だった。選挙制度下での教育委員にもなられ、戦後混乱期の本県教育界に、極めて大きな功績を残された。その後第二の人生を社会事業に打ち込み、私財を投じ、最も困難視されていた精薄児養護のため全力を傾け、苦心努力の結果、施設安倍学園を造りあげ、以来寧日なく施設拡充に苦心されておる姿は敬服に耐えない。今日、幸いなことに子息亮一君が後継者となられ父子揃って不幸な子供等のために努力されておることはまことに立派という他ない。また、私の選挙にはいつも出納責任者として、欠くことのできない役割を引き受け、ご苦労をかけておった。『明新館』発足の主唱者でもあり、私とは長い年月の交際であるがいつも変わらない地味で誠実な人柄は、教えられることの多い友人である。」と思い出深く述べている。

名は体を現すというが、銕の名は「銕(鉄の古字)之只一魂の鉄、磨かざれば瓦礫に等し」に由来し、いわれの通り、自己の研鑽を怠らなかった努力家であった。また、理事長室には、父の琴次の残した「菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る」(陶淵明)の色紙を掲げていた。推測するに、施設の開設当初、様々の仕事に追われ、さぞかし、忙殺されていただろうが、心の自由さを常に持ちたいという事ではなかったのだろうか。いずれにしても、心のゆとりを大切にし、高い次元から物事を見ている人物であった。

また、父の琴次の影響から、漢籍に良く通じ、詩作を好んだ。「寺田みちを」のペンネームで法人の会歌、磐田北高をはじめ、県内小中学校の校歌の作詞を行っている。郷土の音楽家中島静先生とコンビで「お寺の銀杏」等の人々に親しまれる歌を数多く残し、現在も愛唱されている。

安倍学園・安倍寮の母体である、明光会の名は、自作の漢詩「明光(太陽)は無限の光と熱とを持ってその本性と成す」から取ったという。我々後に続く者もその光を受け継いで行きたいと念願している。

(安倍寮施設長 堀越英宏 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )