File35 八谷 祐司 氏 yuuji hachiya

 

 

 

 

 

 

 

プロフィール

社会福祉法人明和会 創立者

~人に支えられ、人を支え続けた人生~

 

1 はじめに

八谷祐司は、昭和41年11月生まれ故郷である袋井市内に社会福祉法人の設立を計画し認可を得た。翌年3月に県内3箇所目、県西部では始めての障害者支援施設(当時は精神薄弱者入所更生施設)「袋井学園」を袋井市広岡に開設した。以来同市内を活動の拠点とし、一般企業への就職とその後の支援、施設利用者の活動の多様化を目指した農園芸や家畜の飼育、店舗経営を実践し、知的障害のある方々の社会参加をめざした。さらに地域の要望に応えるために保育園の設置、障害のある方々の高齢化対策としての特別養護老人ホームの設置などを行ってきた。

福祉団体の活動にも積極的に参画し、県民間社会福祉事業施設連合会会長・県福祉施設経営者協議会副会長・県知的障害者愛護協会(現県知的障害者福祉協会)会長、更には(財)日本知的障害者愛護協会(現(財)日本知的障害者福祉協会)会長・副会長として中児童福祉審議会障害福祉部会委員に就任し、平成8年からの社会福祉基礎構造改革さらには、その後平成11年1月に意見具申として公表された「今後の障害保健福祉施策の在り方について」をまとめた。

 

2 生い立ち

八谷は、昭和4年7月16日に当時小学校の教員、後に校長となった八谷英二の次男として生まれたが10歳のときに母が死去、11歳で永井家の養子となる(昭和29年9月養子縁組を解消し八谷姓に戻る)。15歳で陸軍少年飛行兵学校に入隊、通信兵として訓練を受けていたが終戦を迎えた。この時代のことはあまり語らなかったが、時折思い出すのか、語る話は戦争の不条理なエピソードが多かった。例えば、上官から同期の者を殴れと命令され、嫌だったので力を抜いて殴ったがそれが見つかり、再度力を入れて殴ったら相手が気絶してしまった。飛行場で機銃掃射にあい逃げたが間に合わず、隣の同じ歳の兵隊が死んでいた。などである。戦後帰郷し中泉農業高校(現県立磐田農業高等学校)に復学し、養子先の農業を手伝っていた。

 

3 青年団活動から障害者福祉へ

農業に従事する傍ら青年団活動にも取り組み昭和28年には静岡県青年団協議会の事務局長を務めた。その後、静岡日日新聞の新聞記者を経て昭和32年4月に社会福祉法人聖隷保養園(現聖隷福祉事業団)の理事長長谷川保氏秘書(当時長谷川氏は衆議院議員であり、その議員秘書であったと思われる)を務めた。これらの経験を経て、当時県教育委員など教育界で活躍していた寺田銕氏(社会福祉法人明光会創設者)と同郷のご縁から、社会福祉法人明光会に勤務し「安倍学園」「安倍寮」の設立準備段階から事務担当として従事する事になり、昭和35年静岡市に「安倍学園」「安倍寮」の開設をお手伝いした。

この後、昭和41年の明和会設立、翌年3月に袋井学園の設立に至るのだが、そこまで経緯と動機を八谷の明和会20周年記念誌の挨拶から引用する。

「20歳代の頃、若気のせいもあって、青年運動や、労働運動等に頭を突っ込み、それが新しい国づくりであり、弱い立場の人、恵まれない人たちの味方のつもりでいましたが、この人たちと出逢って、人として生まれながら義務教育はもとより、自分の主張や、自分の意志では生きていけない人たちが存在し、しかもこんなに沢山居ることや、こういった人を家族の一員にもつ家庭の救いようの無い悲しみ、苦しみを知り大きなショックを受けました。

そしてこれの解決策の一つとして安倍学園のような施設が一日も早くもっとたくさん出来ることを願わずにはいられませんでした。しかし、5年経っても、7年経っても施設はあまり増える気配もなく、入所希望の相談は増えるばかり、しかもその欲求は悲鳴にも近いものがありました。誰か造ってくれる人がいないならば自分達で出来ないかなと思ったのが、袋井学園設立の動機でありました。」

 

4 施設も地域も

袋井学園を設立後、多くの入所希望があり逐次定員増をはかる一方施設から職を得て社会に出て行けるようになった人たちの社会訓練の場として、昭和50年に広岡通勤寮を、昭和54年には全国に先駆けて、障害者の地域の暮らしの場として心身障害者生活寮を県の単独事業として制度化を働きかけ自宅を心身障害者生活寮「旭町ホーム」とした。後に通勤寮制度は現在の障害者就業・生活支援センターの基礎となり、生活寮は全国各地での実績から平成元年に国の制度の障害者地域生活援助事業(グループホーム)として、障害のある人たちの地域生活の重要な拠点のひとつとなった。

同時に入所施設を希望する方々の増加に伴い、昭和53年あきは寮を開設した。あきは寮は周りを広大な畑と二つの川に囲まれたのどかな地域であり農園芸作業などにより体力づくりと情緒の安定をはかった。これらを経て企業就労さらにグループホーム利用へと地域生活に移行し、袋井市内で7箇所の地域生活の拠点を整備した。

 

5 県の福祉関係団体役員として

昭和53年静岡県知的障害者福祉協会に会長就任し、昭和62年静岡県ソーシャルワーカー協会代表世話人、平成3年静岡県民間社会福祉事業施設連合会会長に就任した。この年、藍綬褒章を受章した。さらに平成8年(財)には全国組織である日本知的障害者福祉協会の会長に就任した。

県知的障害者福祉協会の会長時代には、「国連・障害者の10年」を記念した駿府公園の外周道路を会場に県内の知的障害者施設を利用している障害者を参加者として静岡オレンジマラソン大会を開催した。この大会は会場を草薙総合運動場に変更し昨年32回大会を迎えた。さらに、協会設立以来取り組んでいた知的障害者施設職員の研修講座の内、絵画療法の取り組みを発表する場として県内各施設利用者が作られた絵画・陶芸作品を一般に公開する愛護ギャラリー展を開催した。愛護ギャラリー展も現在静岡県障害者芸術祭参加イベントとしてグランシップで開催されており昨年27回を迎えた。

 

6 社会福祉基礎構造改革の嵐の中で

国レベルの活動としては、中央児童福祉審議会委員、中央障害者施策推進協議会専門委員を歴任した。平成8年からは社会福祉基礎構造改革に関する事項の内、障害保健福祉施策と深く関連する項目について審議を行う身体障害者福祉審議会・中央児童福祉審議会障害福祉部会・公衆衛生審議会精神保健福祉部会 合同企画分科会の委員となった。この委員会は、平成10年6月17日の「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」と同12月8日の「社会福祉基礎構造改革を進めるに当たって(追加意見)」で提言された改革の理念及び具体的な改革の方向を尊重しながら、新しいサービス利用制度の在り方、障害保健福祉サービス水準の確保、利用者の保護等について具体的な改革の内容の検討を行った。この検討結果をまとめ平成11年1月19日に「今後の障害保健福祉施策の在り方について」を意見具申として公表した。

しかし、八谷はこの公表の直前の1月13日朝に脳内出血を発症し救急搬送された。その日も審議会のため上京予定であった。障害者施策の大転換期であり一日の停滞もゆるされない時期であったため各委員・会長職を辞任し治療、リハビリに専念した。その後回復し、平成14年には勲五等双光旭日章を受章。平成19年3月まで明和会の理事長を務めたが平成26年5月18日85歳で死去した。同日付で従六位に敘せられる。

 

7 ふりかえり

八谷の人生のターニングポイントには必ず師と呼べる存在があった。視野を社会に向けてくださった長谷川保氏。障害者福祉に導いてくださった寺田銕氏、活躍の場を全国に広げてくださった江草安彦氏(岡山:川崎医療福祉大学元学長、社会福祉法人旭川荘元理事長)などである、八谷の人生は人に支えられ、人を支え続けたものであったと思われる。

 

社会福祉法人 明和会

理事長 八谷 重之 氏 執筆