File22 長谷川 明徳 氏 Meitoku Hasegawa

プロフィール
社会福祉法人誠信会創設者〜生きた宗教を社会福祉に〜

はじめに

昭和63年4月、桜花の散りしきるなかでおこなわれた長谷川明徳氏の葬儀で、ねむの木学園の宮城まり子さんが「あなたが施設づくりの後見人だった」と涙の弔辞をのべた。このように「明徳さん」と誰からも信頼され、たよりにされ、業界のまとめ役として期待される存在であった。大昭和製紙、斉藤家の菩提として知られる曹洞宗玉泉寺の住職である明徳氏が旧本堂を開放して家庭にめぐまれない子供の施設をはじめようと若い眼を輝かして奮走したのが昭和37年のことである。以来富士山のふもとに親なき子供から、障害者、寝たきり老人までの7つの施設を次々と開設し、総合施設として発展させながら、県民間社会福祉事業施設連合会長などの要職を務めた。「福祉の仕事に生きる人を大事にする世の中に」とソーシャルワーカー協会づくりなどにも力を惜しまなかった明徳氏は、本県福祉業界の先覚者の一人といえよう。そのプロフィールを、創立以来の苦楽を共にされた盟友太田昭道氏(誠信会常務理事)にペンをとっていただいた。ぜひご高覧いただき、先人としての明徳氏をしのんでいただければ幸いである。

寒厳禅師の感化をうけ

長谷川明徳氏は、昭和9年1月10日富士市比奈に生まれ、高校時代より野球が好きで、駒沢大学入学後も野球部へ籍をおき、卒業後も野球部OBとして大学の合宿所、神宮球場へはよく顔を出しておりました。後輩には元巨人の中畑、西武の石毛なども親交が厚かった。本人も一時はお寺の後継より野球の世界を望んだ時代もあったようです。
昭和31年に駒沢大学を卒業し、熊本県の大慈寺で2年間托鉢と座禅の毎日を過ごし、この修行で得た最も大きな成果は、開祖寒厳禅師の社会事業に力を注がれた生き方である。寒厳禅師は道元禅師より少し後の方ですが、道厳全師が山にこもった(福井県永平寺の開祖)のと対照的に、野にあって、有明海の干拓や架橋やら、いろいろ社会事業を興して、当時の世の中に貢献したのです。
大慈寺での修行の後、永平寺で半年僧侶としての修行を終えて「生きた宗教を福祉に」と東北福祉大学で社会福祉の勉強をいたしました。ここで、講師として来ていた田代不二男先生(東北大学名誉教授)の指導をうけ、現代の菩薩行・社会福祉にかける情熱は、ますます深まり、遂には本場の先進福祉を実習把握するため、恩師の田代不二男先生の紹介で、単身アメリカ・ネブラスカ州・オマハ市の「少年の町(ボーイズ・タウン)」に行って実地研修してこようと決意したのであります。

I go to Boy’s town

昭和34年、その当時外国へ行くことの困難さは、自由すぎる今から思うと、まさに隔世の感があり、おまけにアメリカまで貨客船で横浜の港より親、兄弟はじめ、永平寺の丹羽禅師様に見送りを受け、また吉原駅では、大昭和製紙の創立者である斉藤知一郎翁にも激励の見送りを受けたのでありました。
そうして太平洋の航海を2週間、さらに内陸のネブラスカ州オマハ市郊外の「少年の町」まで手探るような旅を続けられました。時には言葉がままならぬため、胸に「I go to Boy’s town」と書いた札を下げてヒッチハイクで広漠たる大陸を渡られました。托鉢僧の姿で「少年の町」に入り、故フラナガン神父の後継者ニコラス・ウェグナー氏に田代先生よりの紹介状を見せると、「よく来られた、心ゆくまで勉強していきなさい」と一部屋を与えてくれ、食事代もいらなかったそうです。お世話になった記念に、僧侶として一番大事な「絡子(らくす)」を贈呈されました。それが兼高カオルさんの「世界旅行……」の番組で、「ボーイズ・タウン」の特集の時紹介されたのをTVで偶然見たことがありました。
また後に静岡市とオマハ市が姉妹都市を結ばれた時、代表で来られた「タケチ」さんというオマハ市の日本人会代表の人には大変お世話になったと、日本へ来た時は喜んで会われました。こうして「少年の町」の職員と一緒になって、アメリカ式福祉の実際を肌で学びとったのです。「少年の町」は飛行場から、銀行、警察まであり、文字どおり一つの町であり、第二次大戦の落し子、両親はいるが離婚した崩壊家庭の子供が職員と一緒に住んでいて、農園などで働いたり、学んだりしており、入所児も3,000人くらいの大規模な施設でありました。このような強固な意志と実行力、そして社会福祉事業に対する情熱を燃やしたのは若干26歳の時でありました。

養護に欠ける子供の施設

長谷川明徳氏が社会福祉事業に傾倒された発端は、お寺として慈悲の世界に生まれ、心豊かな家庭環境にはぐくまれて成長した生来の菩薩心と戦後の混乱も漸くおさまったとは言え、昭和30年代前半、修行僧として各地で見聞した戦災孤児や精神薄弱者や気の毒な老人の現実に触れた時、福祉に対する関心が益々高まり、「生きた宗教を福祉に活かすため」福祉施設の必要性と建設のことが真剣に考えられるようになっていったものと思われます。
そして帰国後まだ「福祉」という言葉すら珍しく、社会の理解も乏しく、行政の裏付けも少なかった昭和37年5月に、はじめて玉泉寺の旧本堂を利用して数人の子供達をあずかり、檀家の人々、近隣の人々より物心両面の援助をいただきながら生活が始まり、同年11月に待望の児童養護施設「誠信少年少女の家」の開設認可が下り、永年夢に描きつづけた社会福祉施設の一点の灯火がともされたのでありました。
福祉施設としてスタートしたものの、建物はお寺の旧本堂と庫裏のため、子供達が生活するには不便な点が多くありました。本堂の大広間をベニヤ板で仕切り、職員と子供達が一緒の部屋での生活でした。風呂も「五右衛門風呂」でお墓の花筒を薪にして使用し、調理場もお寺の台所なので、薪を使用してカマドで煮炊きしました。このような施設を早く子供達のために新しい施設を建設するため托鉢をし補助金を得て、昭和41年鉄筋3階建ての「誠信少年少女の家」が完成し、翌年4月には常盤宮さまに出席いただき落成式を行ったのです。定員も50名となり中学校を卒業する子供も多くなり、高校進学をさせるため、後保護事業として「誠信製作所」を設立して学資を得て、夜間の定時制高校へ進学させ、自立の場を与えたのでした。
この頃より就職に失敗した子供や、中学卒業後も就職に無理のある子供達がいるため、非行児のための施設を建設しようと、アメリカの「少年の町」のような広大な土地を求めて富士山麓を駆け巡り、やっと求めたのが、今日の岩倉の地であり、後の「ふくしの里」であります。

「ふくしの里」づくり

この「ふくしの里」は富士市の市街地から東名高速道路を越えて、ずっと北のはずれ、海抜約700Mのところにあり、緑の樹木と季節の花々に飾られた公園の中に福祉施設があります。
晴れれば富士山がすぐ間近後方に伸び上がるようにそびえ、空気は澄みきっていて、夜は星が空一面にきらめいています。約2万4千坪という広大な敷地に入ると、すぐ左手に子育観音像、あるいはモダンなロッジ風の外来者用宿泊施設、プール、運動場、会議・研修棟、東屋、職員宿舎などを包み込んで諸施設がのびのびと建ち競っています。
昭和45年には児童養護施設「岩倉学園」を建設し、最初は15歳〜18歳までの非行児を養護施設として預かり、職業訓練を中心に社会性を身につけて、1〜2年で社会へ送り出す施設として、全国の養護施設でも類を見ない内容でスタートいたしました。中には家庭裁判所の試験観察、保護観察所の保護観察少年もおりました。児童福祉法と少年法の谷間にある施設がため、15歳を過ぎると養護児童は児童相談所より家庭裁判所へ行くケースが多く、入所児童も児童相談所より家庭裁判所からの入所が多くなり、行政指導により、やむなく一般養護施設に昭和53年をもって内容変更いたしました。
そのため、昭和53年からは、一般の養護児童のみとなりました。この「誠信少年少女の家」と「岩倉学園」の両施設は、家庭環境に恵まれない2歳から18歳までの児童をあずかり、父母に代わって養育する施設で、仏教の教えに基づいた躾をし、勉強、スポーツ、遊びを通じて自らの判断で行動できる個性的な人間づくりを目標にしています。

重度障害者の施設も

昭和50年には、県・市の要請により富士市に最初のねたきり老人のための特別養護老人ホーム「富士楽寿園」を建設しました。この施設は、65歳以上のお年寄りで、身体的、精神的に著しい障害があるため常時の介護を必要とし、かつ居宅においてこれを受けることが困難な人をあずかり、健康維持向上のためリハビリ訓練、次いで趣味能力に応じての生活介護、自宅との交流も密にし、個別外出の実施、余生を明るく楽しく過ごしていただくため、明るいホームづくりをめざしています。入所老人以外にも、ショートステイ(短期保護)、デイサービス(一日訓練)、給食サービス、入浴サービスも実施しています。
昭和54年には精神薄弱者更生施設「富士和光学園」を高齢者対象に開設し、昭和61年には「富士本学園」を薬物治療を要する人を対象に建設いたしました。この両施設はIQ35以下の重度精神薄弱者を主にあずかり、更生を目的としております。入所者の年齢も20歳以上がほとんどで、てんかん等の病気を持っている人も多いので医療面の充実をはかりながら、生活指導、作業指導及び余暇指導で、自立生活ができるよう訓練しております。重度者が多いため社会復帰、家庭復帰は困難な面はありますが、一人でも多く更生して社会自立できるよう努力しております。他にも障害者のショートステイ(短期保護)、デイサービス(一日訓練)もおこなっております。
地域福祉推進のため、平成元年には富士市より委託を受けて高齢者介護ホーム「やすらぎの家」を市内中心部に設置し、在宅老人のデイサービスとして、生活介助、食事、入浴、健康管理をして地域住民より大変喜ばれております。また、中・軽度の精神薄弱者のために平成2年には精神薄弱者通勤寮「そびな通勤寮」を富士市より委託を受け、精神薄弱者の社会参加を進めております。このように施設福祉とあいまって、地域福祉、在宅福祉を地域住民と一緒になって進めるよう努力しております。

福祉業界のまとめ役

このように「ふくしの里」には児童、成人、老人の施設がありますが、富士楽寿園の老人は岩倉学園の子供達の元気な声を聞けば生活の喜びを感じますし、富士和光学園、富士本学園の重度障害者の懸命に生きる姿に触れれば、岩倉学園の子供達も自然に思いやりの心を学ぶことができます。そのため単独施設より複合施設の方が利点が多いということから総合施設「ふくしの里」が計画されたのであります。
25年余の長い間一貫して仏教精神を基盤とし、慈悲の心で運営された誠信会は着実な歩みを重ね、富士山麓の静かな岩倉の地に広大な土地を有し、七施設、一事業所、二診療所をもち、入所者300名、職員120名からなる大規模な社会福祉「ふくしの里」を築きあげたのであります。
一方社会福祉活動は誠信会だけにとどまらず、民生児童委員、人権擁護委員、ボーイスカウト団委員長、県ソーシャルワーカー協会役員、更に静岡県養護施設協議会々長、静岡県社会福祉協議会理事などの要職を兼ね、その功績は高く、昭和61年に社会福祉功労により厚生大臣表彰を受け、数々の功績に対して今度勲六等単光旭日章の叙勲の栄を賜りました。
このようにして長谷川明徳氏は僧侶の立場から、仏の慈悲を社会に実践するため社会福祉の道を歩まれたのであります。富士山麓の広大な土地に総合社会福祉施設「ふくしの里」を建設、運営している途上で病魔におかされ、昭和63年2月21日、行年54歳という若さで急逝されたのであります。

※ この文書は昭和63年に執筆されましたが、平成3年冊子作成時に一部追記された文章が含まれています。また、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(太田 昭道 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )