File19 小塩 孫八 氏 Magohachi Koshio
- プロフィール
- 県社会福祉協議会初代会長〜報恩感謝の人〜
- 【静岡県歴史人物事典より】
1884(明治17)〜1976(昭和51)。事業家、社会福祉貢献者。榛原郡吉田村川尻(吉田町)に生まれる。鈴木梅太郎の門下生となり東京農業大学で農業化学を学ぶ。1935年(昭和10)安倍川工業株式会社を創立。高級特殊メーカーとして業界に重きを成すにいたる。金原明善の教えをうけ、「もとはみな善良な人間、あたたかく見守れば犯罪者も必ず社会の役に立つ」との信念をもって県保護司連盟会長、県勧善会理事長などを歴任し、更生保護事業に力を尽くす。また、1940年私財を投じ家庭に恵まれない子らの施設春風寮を設立、以来県内社会福祉事業界で奉仕の指導者として活躍。
1951年に県社会福祉協議会設立に貢献し初代会長となり、戦後福祉の推進役となるほか、県福祉事業協会理事長等多くの福祉団体の役員を務めた。77歳の誕生日に全私財を投じて設立した財団法人小塩報恩会は、今なお県内産業、学術、福祉の振興に助成している。勲四等旭日小綬章を受章。
>参考文献=「静岡県社会福祉の歩み」「福祉先覚者シリーズ7号」静岡県社会福祉協議会 (志田 利)
県社協産みの親
地域ぐるみの在宅福祉をすすめる主役として、あらためて期待をあつめている社会福祉協議会、そのまとめ役である静岡県社会福祉協議会の初代会長が小塩孫八氏であることは良く知られている。そして戦後の混乱期のなかで、県社協の前身である同胞援護会時代からの責任者として、両者間の円満な継承をはたすために大いに貢献されたことは知る人ぞ知る貴重な史実である。戦後40年余、施設中心から在宅福祉の充実へと社会福祉の新しい転換がもとめられる今日、先人としての小塩氏のあしあとをふりかえってみたい。
同胞援護会時代
敗戦直後の世相混沌とするなかで、戦没者の遺族、外地引揚者、未復員者家族、戦災罹災家族が、我が身の安定を願うもののたよるべき人もなく、生活のため、食糧、衣類、住宅の確保に困窮する。これをたすけるにも世人は己の身の保全に右往左往するばかりでそのゆとりがなかった。これら戦災者援護を主な役割として昭和21年4月に恩賜財団同胞援護会静岡県支部(以下同援と略)が発足している。当時からかかわってこられた田仲忠次氏(元県共同募金会常務理事)の話でも「同援は、戦前の戦災援護会、軍人援護会の資力と人材を結集して全国すみずみまで組織された活動体で、終戦前後の混乱日本を大過なく経過させるに大きな役割をはたしてきた。」半官半民の組織である。支部長は知事、副支部長2人のうち1人は県民生部長、他の1人に民間を代表して小塩氏が委嘱されていたが、昭和23年2月准民間団体として発足するにあたり、支部長に河井弥八氏(当時参議院議長、大日本報徳社長)を迎え、自らはひきつづき副支部長として事業の推進にあたった。終戦当時県内には富士育児養老院、聖隷保養農園等の民間施設もあったが、なんといっても県の応援をうけての同援が最大の施設集団でもあった。発足時の名簿にみられるだけでも、静岡職業補導所、静岡授産所、千代田保育園、日吉町保育園、緑寮、弁天島同胞寮、伊豆長岡寮湯の家、義肢製作所、沖縄県人沼津収容所等12施設、その外、物資頒布所、生活相談所、厚生資金貸付から昭和22年11月発足した共同募金委員会の事務を受託し、引揚戦災孤児援護等の啓発宣伝活動、施設職員講習会の開催まであらゆる福祉業界の中心的活動をはたしている。
小塩氏はこれらの事業をすすめる先頭にあったことは当時同援の常務理事をつとめた深沢鉱ニ氏の日記からもうかがわれる。
◎ 昭和22年11月20日、軍政部厚生課長よりの呼出しに接し9時出頭、伊豆長岡同胞寮湯の家の施設目的である休養施設を廃止して養老施設に切替えよとの話であった。(中略)抵抗をこころみたが「日本は戦争に負けたのである。勝った米国より命令する」の一言で私の負けとなる。(中略)小塩副支部長に報告し、湯の家渡辺寮長と連絡、修理は老人を収容してから、とする。
◎ 昭和22年12月8日、早朝戸巻富士育児養老院長、老人をつれてバスでこられた。歩行不自由の老人があるので院長に手伝いして、老人を担うと部屋に収容した。荷物も到着したのでホッと安堵した。小塩副支部長も心配され、収容の様子を見に来られた。
このように随所に小塩氏の名がでてくるのである。ところでこの同援、その幅広い活動の故にGHQから政府に次ぐ強力な実力団体と批判され昭和26年解散となる。この結果同援の事業は、昭和25年6月に事務局が独立した共同募金会、施設部門が静岡福祉事業協会、弁天島同胞寮、長岡寮湯の家、日吉町保育園にわかれて独立、のこりの啓発活動などを県社会福祉協議会が引き継ぐという形で6法人にわかれることになるのである。昭和26年2月20日、同援と静岡県社会事業協会、静岡県民生委員連盟等が統合される形で静岡県社会福祉協議会創立総会が静岡市公会堂で開催され、この席上で小塩氏が会長に満場一致で選ばれる。
この総会の宣言には「新憲法の精神に則り国民の最低生活を保障し健康で文化的な生活をもたらすものは福祉国家の実現にある。関係者相依り一致協力相携えて250万県民のための強力な活動を展開しなければならない」(静岡県民生時報24号)とうたい新しいスタートを切るのである。
小塩氏は別に独立した施設部門の法人にも理事または顧問として参画、このうち静岡福祉事業協会では昭和42年からおよそ10年理事長として任を果たされるなど、同援解体の名実とも責任者としての役割を誠実に実践されるのである。
小塩報恩会創立
小塩氏の大きさは上記のほか、更生保護事業、社会福祉事業の幅広い領域で奉仕的役割をはたすところにある。昭和15年現在の養護施設春風寮を、私財を投じて可法保護施設として創立し、自ら理事長となったのもその1つ。
さらには昭和36年、与えられた財産は、私すべきでないとの意思に基づき、創立した安倍川工業株式会社関係の個人財産全部を提供して財団法人小塩報恩会を設立。ときに77歳の誕生日であった。この法人の財産による果実は、今も県内の社会福祉、産業振興、学術研究、医学振興など各方面に助成され、そのもたらす県民への福音ははかりしれないものがある。
この財団の常務理事をつとめられ小塩氏のそば近く接して来られた増田仁氏に、これほど奉仕に徹してやまなかった小塩氏の原点をたずねると、「自分が今日あるはすべて社会のおかげである、という報恩の気持ちより生じたものであると思う。数々の役職を通して多くの人々とのふれあいのなかより、人生の表裏をかいまみた時、人より一汗多く仕事をしながらも常に人のことを考えていたやさしさがもとにあった。特に金原明善先生と親しくさせていただいた関係で更生保護にかける情熱は強かったように思う。これらの事業が鈴木与平先生らの手により継承され、社会を明るくする運動として発展しておりますことはたいへんうれしいことに思います。」そしてなによりも小塩氏の苦労力行された前半生の体験に原点があろう、と。
立志伝中の人
「戦後、県財界にめきめき頭をもたげ、瞬く間に確固不動の地位を築きあげた立志伝中の人物、まれにみる謙譲家、彼ほど刻苦勉励した人はいない。彼ほど強烈な意思をもつものはみない。」(山雨桜主人著「静岡今昔物語」)と評される小塩氏が、安倍川工業株式会社創立25周年祝典で語られたなかから、その前半生のポイントをひろってみたい。
「明治17年、榛原郡吉田村川尻の半農半商の家に生まれた。5歳の時に父を亡くし、祖父、母の慈愛のもとに成長、母がよく他人の面倒をみ隣人から親愛されているのを無言の教訓とする。当時の風習で小卒後、和田村の名門村上令一氏のところに奉公、厳格にしつけをうける。時に14歳。賢夫人の奥様より日本外史などの講義を受けながら朝5時半に起き、20数室の雨戸をあけ、3千坪の庭を掃き、一日の仕事が終わると夜読書に励み農芸化学の研究に興味をもっていく。27歳で年季が明けると郷土の先輩鈴木梅太郎博士の門下生となる。精励刻苦、大学にすすみ農業化学の権威となり、33歳、巴川製紙の研究室雇員に招聘される。日本初の特殊紙の研究所が設けられ、推されて工場長となる。後東京資本からはなれた郷土の利益にかなう企業を心に描き、知友の共鳴をえて昭和10年、安倍川工業を創立、高級特殊紙の生産を目指す。しかし巴川の社長から『安倍川工業の製品を取引したら巴川の出荷を止める』と圧迫される。苦闘6年遂に難関をきりぬけ営業好調となる。昭和18年には安倍川パルプ等を吸収合併、経営規模を拡大していく。21年火災に遭い重要資材灰に帰するも半年に到らず復興、研究を重ね、高級特殊紙メーカーとして業界に重きをなすにいたる。これ偏に従業員各位の勤勉努力、各方面の支援強力による。この期にあたり感謝をこめて私財を投じ財団法人とし薄倖な人との福祉増進等に資することとした。宿願実現できたことを喜びたい。」と。正に立志伝の人である。
報恩感謝のくらし
昭和43年、県社会福祉協議会長の職を盟友鈴木与平氏にゆだね、人心一新をはかったのちも、関係団体の役員会等には熱心に出席され会に重みを加える温顔は今も眼前うかんでくるほどである。その謹直さをしめす話をひとつ。「会議にでた茶菓子は大事に紙につつみ、ごく自然にポケットにしのばせ帰られた」(竹山よ志子氏)「何しろ、本人は非常な勉強家、努力家であり、財を成しても自分のものとせず、非常に質素なくらしをし、困っている人にはおしみなく与えるような人でした。」(増田仁氏)、常に自分に厳しく、甘えることなく、92歳の天寿を全うするまで、常に「報恩感謝」の一言につきる生活をおくられた。明治の心を生き、福祉業界の大事に力を貸された先覚者の一人といえいよう。増田氏の言われる「もとはみな善良な人間、あたたかく見守ってやれば犯罪者も必ずや社会の役に立つようになる。いう信念、そしてやさしさ」を身をもって示した先覚者の奉仕一筋の生きざまを県内各地の社会福祉協議会が中心となり在宅福祉のあみの目をひろげ、心豊かな郷土づくりをすすめるうえで、大いなる師表として活かしていきたいものである。
あらためて10年前に亡くなられた先人の霊に合掌しペンをおきたい。
(志田 利 筆)
※ この文書は昭和62年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。
【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )