File09 石丸 のぼる 氏 Noboru Ishimaru
- プロフィール
- 静岡ホーム中興の人〜キリスト教に生き児童福祉に献身〜
はじめに
事業の沿革によれば、日露戦争(1904〜1905)による戦没者遺族の乳幼児を保護するため、当時静岡市に在住したカナダ、メソジスト派宣教師、ロバート、エンバーソンが市内鷹匠町二丁目に「出征軍人遺族幼児保管所」と称して設立したのが明治38年(1905)で、明治40年4月には市外安東村に移転して「静岡ホーム」と改称、社会事業として経営をはじめたと言う。
明治43年には、もと、清水の次郎長等が収容されたこともある刑務所跡の静岡市井宮町181番地に、広大な土地を買い求めて移転し、ロバート、エンバーソンの学校、ウイルキンソンが来静して意志をつぎ、昭和3年まで継続して総長(理事長)の職にあり、園長は日本側のメソジスト派の信者によって運営された。初代園長松井農吉より、安西唯三郎、吉岡芳之助、飯沼正己を経て、大正12年10月、石丸のぼるがウイルキンソンの招きに応じて五代目園長に就任することになる。
この間の18年間は静岡ホームの創世期
時代とも言えよう。
青年牧師時代の交友
石丸のぼるは早稲田大学文学部、東京学院専門部英文科、日本バプテスト神学校等、長い学生時代に多くの良き師良よき友に恵まれた。
師としては、劇作家坪内道遙、日本画家の横山大観、洋画家の安井曽太郎など、学友としては、戦後社会党内閣首班の片山哲、無政府主義者の大杉栄、牧師であり社会運動家の賀川豊彦、芸術方面では、童話作家の久留島武彦、剣劇俳優の沢田正次郎等で「沢正」とは学生寮で同室した仲だったと言う。
このような交友関係が豊富な知識、思想、人格として築かれたのではなかったか。
のぼるの兄の優三も、文部省に勤務するようになり、画家との関係はこの兄が紹介したようである。
社会主義的な友人と接点があったのは、キリスト教を信奉する純粋な牧師として当然のことであったであろうが、言葉や態度には表現しなかった。
しかし、内心はキリスト教社会主義者で大杉栄が静岡に潜伏した頃、庇護した様子があり、暗殺されたのち、静岡市の埋葬墓地の斡旋もしたと言われている。童話作家の久留島武彦とは、童話グループを組織して共に活躍し、童話の演出を身につけることが出来た。
また牧師となるためには、話術の習得が必要だとして上野「鈴本」の「寄席」に通って、落語、講談、漫才の練習に励んだことも学生時代の逸話となっている。
結婚と青年牧師の頃
石丸のぼるは晩学であり、当時としては晩婚でもあった。
神学校卒業が大正5年の28歳、萩原きよしとの結婚は次の年の大正6年10月、29歳となっている。
萩原家は、武田信玄の配下にあり、長野県小諸城の家老を努めた家柄で、城主にばしゅつの指導、教授をしたと言う。
きよしは、金沢白銀町61番地、萩原藤三郎の長女として明治30年1月12日出生し、小学校終了後は、虚弱体質であった理由により、温暖の地に天地療養も兼ねて、静岡英和女学院に入学させられた。寄宿舎生活五ヶ年で卒業し、引き続き、英語と音楽を二ヶ年専攻後、同行の牧師も勤めた。退職後、東京に在住していた父、藤三郎のもとに帰ったが、当時石丸のぼるの牧会していた上富坂教会が近くにあったので、聖歌のオルガン伴奏の奉仕をした。
このことが機縁となり、関東学院(神奈川県)の坂田牧師が仲人となり結婚式をあげることができたのであるが、20歳の花嫁と29歳の花婿とでは年齢の差があり過ぎ、小軀ののぼると長身で清楚のきよしとの釣り合いには問題であったが、のぼるのたっての願いにより実現した。
結婚後、引き続きに、長女ゆり子、露子、哲(さとし)の二女一男が誕生し、石丸家最高の良き年が6年間続いたが、大正12年、関東大震災に遭遇、帝都東京は焼土と化し、石丸のぼるも裸一貫となった。
しかし、この間の6年、若き牧師として東京市内の教会を縦横にかけめぐり、得意の説教を続けた。
その頃の逸話に次のようなことがある。
愛媛県温泉群、瀬戸の潮風の吹く農村に、文盲の祖母を残してきた。
地主であったが、7人の子持の末えっ子であるのぼるが、学問志望のため家出して東京に上った。末えっ子は不憫に想う。末孫が無事大学に入校できたことを知って喜んだ。その孫と語りたいが字が書けない。
字が書けるようになりたい一心の祖母の気持ちをひとずてにのぼるは聞いた。
のぼるは「おばあちゃん」のこころねを嬉しく思って、いろはのいの字から通信教授をはじめた。物の絵を書いて横にかなふりしては書き送り、送り返ししてをくりかえしながら、のぼるが牧師として活躍する頃には、ひらがな文通ができるようになった。
祖母からのたどたどしいひらがなの手紙が頻繁にくるようになった。
そのたびに、祖母の手紙を読みあげては、教会の人々に披露しては語り続けた。
数えるほどしかないひらがなの大文字の手紙には、ぎりぎりの真実だけが書かれていた。
語る人も聞く教会の人々も涙して、次の祖母のおとずれのことばを待ったということである。
静岡ホームの理想建設はじまる
関東大震災で、焼けだされの身となって、静岡市におもむいた石丸家は、のぼるのキリスト教牧師としての信仰の厚さによるものであろうが、家族の悲哀におちいらせるようなことはなかった。
着任そうそう、施設の寄付集めをしなければならなかったが「乞食じゃ、乞食じゃ、今日も乞食じゃ」とうそぶき、雨の日は「蓑着て笠着て鍬もってー」とつぶやきながら、施設の畑の野菜を育てる等、生来の陽気さと「鈴本」で仕入れた諧謔(かいぎゃく)性により明朗闊達に逆境に対処した。
かてて加えて、その性格は愛情にみち社交性に富んでいたから、東京にあった有名な社交界の連中も次々訪れて激励してくれるし、地元静岡においても、西園寺公望、徳川家達等が早速協力に加わった。
このことが、恩賜財団、慶福会の助成ともなり、大正15年、静岡ホーム事務所が完成した。
昭和4年には、託児所として新たに、静岡ホーム保育学園が開設された。
保育学園とは、ナースリースクール(Nursery School)を日本語訳にしたもので、当時静岡英和女学院で教鞭をとっていた、ナースリースクールの権威者、ミスレーマンの指導を依頼して設立したものでレーマンの教える、功木嘉子を主任に迎えて保育を始めたものである。
これが、日本最初ナースリースクールの施設で、ミッション(プロテスタント)婦人宣教師の手によって、日本国内に発展して行ったものであることが記録されている。
ミスレーマンは昭和4年より、静岡市に滞在し、昭和8年米国に帰国している。
ナースリースクールには、あらゆる教育的設備が用意され、自然環境の中で幼児がよりよい保育をされるもので、随って広大な地域が必要である。
畑、果樹園、花壇、小動物の飼育小屋、プール、芝生等、建物は家庭的に考案され、完全給食で、保育室には、あらゆる保育材料、玩具、運動具が用意されている。
小さな保育村、と言った感じのもので、この様な条件を満たすには、静岡浅間山(賎機山)の山のふところに所在した静岡ホーム学園は、全く格好な場所を占めていた。
石丸のぼるはここに着目して、ナースリースクールの最初の実験場として成功したのであった。
昭和5年には、天皇が静岡県下に行幸あらせて、牧野徒従を派遣して、施設を見舞い職員の労をねぎらっている。
昭和9年、皇太子殿下御降誕記念として、三井報恩会より援助があって、乳児院の増築母子寮の新築と矢つぎ早の施設拡充ができ、社会事業の民間施設として、内容外観共に県下唯一となって国内に知れ渡った。
この間、自らの施設の経営に当るのみではなく、昭和4年には、伊豆震災の出張託児所を開設して、静岡県知事より感謝状を受けている。
昭和15年1月15日に起った静岡大火では、5,100戸の大惨事となったが、類焼をまぬがれた施設に罹災者を収容、救護に当たったので、静岡市長より感謝状を受けている。
軍部の注意と空襲爆撃
昭和15年は、紀元二千六百年祝賀の年で、昭和12年からの日中戦争が膠着(こうちゃく)状態となり昭和16年、米英両国に宣戦布告して、太平洋戦争に突入していった。
この頃になると、国粋主義を徹底させるためか、内務省令で、外国人名のものは改名させられた。(ミスワカナ、ディック、ミネなど)
煙草のバット、チェリーも、金鵄、桜と改名し、昭和18年には、雑誌名の、サンデー毎日は週間毎日に、キングは富士に、野球用語のストライク、アウトも使用禁止の言葉となった。
この陰惨の嵐が、静岡ホームにも襲ってきて、「昭和18年10月、軍部の注意により静岡ホームを、静岡厚生園と名称を変更させられた」と事業の沿革に記載されている。
「静岡ホーム」のもとの名称に戻ったのは、昭和26年5月になっている。
静岡ホームの理事長であり、園長でもあった石丸のぼるの生涯に、一番嫌な期間ではなかったか。
昭和20年6月20日、静岡市の空襲の直撃を受け、理想境、静岡ホームは灰燼に帰した。
建坪、220坪焼失、3名の即死児童も出たが、魔の戦争は終った。(のぼる、満57歳)
昭和22年7月、皇室より御下賜材、六百石を拝受して180坪の児童収容室、事務所、食堂等が復興建築され蘇えった。
裸一貫で郷里を飛び出した少年のぼるは、関東大震災で裸にされ、静岡空襲で裸になったがここからは、戦後の社会事業界及地域の指導者として、華やかな活動が開始されるようになった。
戦後の活躍と昇天
方面委員は昭和4年より委嘱されていたが、戦後は、人権擁護委員、家庭裁判所委員、少年保護司、少年審判所調査員等、司法関係の役職と、県社協の理事、県保母試験委員及保育専門学院講師、県児童福祉審議会委員等の県内外の社会福祉関係の役職を背負って活躍した。
昭和26年、地域の推薦をうけて、静岡市議会議員に立候補し、最高点で当選し市民を喜ばした。
しかし、静岡競輪場問題で反対の立場に立ち、ギャンブルによって起る市民の悪影響を考え、信念を曲げずに徹頭徹尾反対したが入れられず、一期のみで辞任した。
昭和26年、長男、哲(さとし)が、愛媛県の醸造家であり石丸家の親戚に当る、仲田芳美と結婚したので、待望の後継者を得て安堵の時機を得た。
戦後の表彰歴は、司法、厚生その他と多岐に渡るが、昭和36年10月、藍綬褒章を受章し、昭和40年1月19日死亡と共に、勲五等雙光旭日章の叙勲を受けている。
昭和39年10月6日、恋女房とまで、自ら称していた妻、きよしと死別。きよしは宮内省からは銀杯が下賜された。
きよしは、常に控え目に行動し生来の気品と才智にたけた女性として知られ、地域の婦人会の為にも盡し、敬慕されており、静岡ホームの事業発展の内助の功労者であった。
昭和39年、妻、きよし死別後、105日目の昭和40年1月19日、愛妻を追うごとくのぼるも昇天した。享年77歳、愛宕霊園のキリスト教墓地に埋葬、現在は、のぼる、きよし、長男の哲の三霊の墓が過去の物語を秘めて静かに建立されている。
晩年ののぼるは、趣味として菊作りに専念し、50鉢ほど毎年高高と美事に咲かせたが、施設への寄付者、協力者に、いちいち送り届けて感謝の意を表する材料であった。
骨董趣味と言えるかどうか。中国広東省の端渓でとれた、端渓の硯石などの収集もしていた。酒はたしなむほどではなかったが、宴席では隠し芸のコントで皆をよろこばせた。
話術の上手さは定評であったが、童話の桃太郎さんの「ドンブラコッコ、スッコッコ」のリズムで笑わせたことは有名となっている。
戦前、戦後の食糧難時代に園児達と養鶏養豚によって飢餓時代をきりぬけたのであるが動物の投薬、診療出産に役立つものは、心なくも獣医師の父の手伝いをしたことの経験であり、地震、火災、空襲の際にも、罹災者、負傷者への救護にも役立ったと述懐されていた。
四国の愛媛県から、東京に遊学し、静岡県人となって骨を埋めた、石丸のぼるは、社会福祉の先覚者であり、明朗な神の使徒でもあった。
※ この文書は昭和58年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。
(永田 泰嶺 筆)
【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )