File33 長谷川 保 氏 Tamotsu Hasegawa
- プロフィール
- 社会事業家としての長谷川 保 ~聖隷福祉事業団創立者~
1 はじめに
現在の聖隷グループの礎を築いた長谷川保には社会事業家、政治家、宗教家の側面がある。彼の中ではそれらはキリスト教信仰を軸として一体のものとしてあったとは思うが、その行動の表れは困難を抱えた多くの人々を助け、社会に大きな影響と功績を遺した。長谷川保の社会事業にかけた思いが新たな事業や組織を作り、聖隷福祉事業団、聖隷集団を作り上げたと言って過言ではない。本稿では社会事業家、医療福祉経営者としての長谷川保に注目してご紹介をしたい。
2 長谷川保の半生
長谷川保は1903年生まれ。浜松商業高校を卒業後、海外での事業に憧れ、日本力行会海外学校に入学。ここでキリスト教と出会った長谷川保は浜松にもどり、信仰に基づく労働により社会事業を行う目的で大野篁二、山形春人、鳥居恵一らとともに聖隷社を起こした。長谷川保は日本力行会時代に身に着けた技術で「聖隷社クリーニング店」を開業し、教会を通じて地域の困窮している方への支援を始める。1930年、「天地の間に5尺の身の置きどころがない」という結核患者の青年を受け入れ看病を始めた。当時、結核は本邦における死因の第1位であり、有効な治療法がないうえ、感染する可能性があるため大変恐れられ、患者に対する差別的な対応もあった。そのため、聖隷社の話を聞きつけた貧しい結核患者が集まり、規模は大きくなっていった。同時に地域住民からの反対運動もあり、数度の移転を繰り返す。そのような状況下、賀川豊彦らキリスト者達の協力により、浜松市三方原に土地を得ることができ、聖隷保養農園と称した。渡辺兼四郎医師らの協力を得て、長谷川保、八重子夫妻をはじめ、多くの若者が感染の危険を顧みず献身的に看病や看取りに取り組んだ。当時の聖隷はキリスト教をよりどころに職員は無給で働き、共同生活を送っていた。
貧しい結核患者の希望となっていた聖隷保養農園だが、三方原地区でも反対運動がおこり、さらには運転資金も底をついた。いよいよ事業の閉鎖を決断しようとした1939年12月25日に昭和天皇より御下賜金を拝受し、資金面で救われただけではなく迫害も収まり、事業を継続することができた。
拝受した御下賜金をもとに基金を設立し、病院として病棟などを整備していった。患者は次々と集まり、迫害は止んだものの経営的にはまったく余裕がない状態であった。浜松空襲時は負傷者の救護にあたり、医療機関として役割を果たしている。終戦後は食糧難の時代に困窮する戦災母子の支援に取り組むと共に、国会議員として憲法25条、生活保護法の成立に尽力した。さらに、教育事業として聖隷学園の前身となる遠州キリスト学園や障害児の施設である小羊学園、我が国の特別養護老人ホームの原形となる十字の園など多くの事業に関わった。
3 急性期医療への転換~都築教授による手術
戦後、結核の外科療法に画期的な成果があがるようになった。聖隷においても当時の第一人者、東京大学の都築正男教授を招聘し肺外科療法が行われ、多くの患者が全快した。都築教授の手術は以後の聖隷の医療の質に対する基準を引き上げる大きな影響を与えることにもなり、現代にも脈々と通じる「質の追求」の原点ともいえる。長谷川保は都築教授を招聘するについては、新たに手術室を増築し、機器の整備まで行った。社会事業家として多くの方に質の高い医療を提供するための投資を果断に行ったことにより、聖隷の近代化に向けて大きな一歩を踏み出すことにもなった。
4 社会福祉法人への転換~聖隷保養園
1952年、社会福祉法人の認可により名称を「聖隷保養農園」から「聖隷保養園」に改称。聖隷社設立当初からの無給奉仕から発展的に脱却し、法人組織として人事給与制度などの整備を進めていった。施設設備の近代化とともに規模の拡大に伴う医師や看護師、検査技師などの専門職の雇用を確保していくためには制度整備は避けて通れない。内部構造の改革は大きな痛みを伴うものであったと思われるが、経営者として事業継続のために指導力を発揮した。
5 聖隷浜松病院の開設~急性期医療への展開
長谷川保は当時の西欧先進国の死因一位であった心臓病が日本でも多くなることを想定し、当時の心臓外科手術の第一人者である、東京女子医科大学の榊原仟(さかきばらしげる)教授に協力を依頼した。長谷川保は将来の総合病院を構想して当時1億3千万円を投じて、建築工事に取り掛かった。しかし、すでに多額の借金がある聖隷では困難な資金調達であった。理事会にて「発展途上国が人工衛星を打ち上げるような冒険である」として大反対を受けたという。しかし、長谷川保は心臓外科手術の必要性を信じて、1962年に聖隷浜松病院が開院した。その先見の明は正しく、多くの患者が浜松で最高レベルの心臓手術を受けられるようになった。落成式で長谷川保は「もしこの病院が神様のお役に立てないときはいつでも潰していただいて構いません」と挨拶している。聖隷浜松病院の存在意義を明示し、長谷川保の不退転の意思が伝わる言葉である。
6 エデンの園
老人の自殺の原因の多くが貧困ではなく病気や介護への不安や孤独であった。たとえ金銭的に裕福であっても日本人は幸せな老後を送る終の棲家がないのではないか。そこで、病気になっても介護が必要になっても住み続けられる有料老人ホームを企図した。「なぜ聖隷が金持ちの世話までしなければならないのか」と内部での反対もある中、1973年に開設された浜名湖エデンの園だが、自立した人生を最後まで歩みたいという入居希望者が全国から殺到することとなった。長谷川保の考えた有料老人ホームは「自助」のニーズに応え、現在注目されているCCRC(Continuing Care Retirement Community)を40年以上先取りして具現化した、極めて先進的なものであった。
7 未熟児センター
重症心身障害児を一人でも救いたいという浜松市の小児科医・産婦人科医たちの思いを受け、第一人者である名古屋市立大学の小川次郎教授より話を聞いた長谷川保は、新生児集中医療システムに注目。アメリカのシステムを参考に、1977年、聖隷浜松病院に未熟児センターを開設した。集中医療体制を整備することで未熟児の死亡や障害の発生の減少を目指した。同時に世界初となる新生児専用救急車を常駐させた。経営的には大きな赤字を覚悟していたが、質の高い医療提供が期待できると聖隷浜松病院での出産を希望する方が増えたため、次第に経営は安定した。さらに民間病院としては初めて総合周産期母子医療センターの認定を受け、周産期の母子の救急医療に貢献している。
8 わが国初のホスピス開設
多くの結核患者を看取った経験から、看取りの医療は聖隷がやるべき仕事であると確信した長谷川保はホスピスの開設を進める。イギリスのホスピスを参考に、多くの支援を得、人材、資金難を克服して1984年に聖隷三方原病院に開設された「聖隷ホスピス」は日本初の独立型ホスピスとして、聖隷の医療の象徴的な存在の一つとなっている(病棟でのホスピス活動は1981年より開始)。
8 「先頭を走れ」「法律を超えろ」
医療と福祉は切り離せないという認識に立ち、当初から長谷川保は福祉的視点で医療事業を充実させてきた。それが現在の医療福祉を総合的に展開する聖隷の雛形となったと言えるだろう。長谷川保について言葉は尽くせないが、彼自身の言葉が社会事業家、医療福祉経営者の本質を物語っている。長谷川保の言葉を紹介してこの稿を終えたい。これらの言葉から我々は大いに学ばねばならない。
「社会福祉法人が事業を企画するのは、予算があり、法律制度が出来て居て、後の運営が円滑に行われる見通しがあるから行うのではない。寧ろ金もなく法的保護もなくて、そこに生命の危機に泣いて居る人があるから、事業を企画し、実行するのである。この根本的姿勢は、当聖隷保養園の創立以来の姿勢であり、民間社会福祉団体のあるべき絶対的姿勢であります」
社会福祉法人聖隷福祉事業団
理事長 山本 敏博 氏 執筆
【参考文献】
聖隷福祉事業団の源流 浜松バンドの人々 蛯名健三(新評論)
聖隷 長谷川保の生涯 山内喜美子(文藝春秋)
夜も昼のように輝く 長谷川保(講談社)
聖隷 60周年記念誌 60年の歩み
聖隷 70周年記念誌 次なる未来へ