File27 影山 学 氏 Manabu Kageyama

プロフィール
社会福祉法人慈悲庵創設者〜生活困窮者と共に25年〜

おひげのおじいちゃん

豊かな白髪である。一握して下ろして余りない白髯である。きっちり閉まった厚い唇は意志の強固さを示しているが、白髭がこれを柔らげている。眼鏡の角度で厳しさを感じさせるまなざしも、真正面から見ると優しさがにじみでる。耳は大きく凡庸ではない。羽織袴で太いステッキを握って立たせたら、間違いなく絵になる相貌である。

「父は細かい事にはこだわらない茫洋としたところがあった。家族の眼から見ればヌーボーとしてつかみどころのない不満もあったが、私は高校の頃には、父の人間の大きさを感じはじめた。能力とは違う全人間的な意味で、父は大きな人だったと思う」(社会福祉法人慈悲庵元理事長影山浩三氏の話、以下浩三)

同じ生活保護関係の施設長であった鈴木唯男(元聖隷厚生園園長)は、氏の印象をこう語る。
「一口に言って野人ではなかっただろうか。肌で感じて飛び込んでいく純情さ。遠慮なくぶつかっていく純粋さ。現代的な社会福祉事業家というより、志士仁人の人であったと思う」

私(筆者:山浦俊治氏)は一昨年、このシリーズで木全大孝を書き、明治以降の社会活動家の一類型である「志士仁人」の人と想定してみたが、八歳若かった影山は木全を心から先輩として尊敬していたから同傾向の人柄だったのだろう。

最近発刊された「静岡県社会福祉の歩み」の中で、生活保護関係を執筆した神田均(前西部民生事務所長、現県清松園園長)は、この著書の中で、特に影山学と山城多三郎について触れているが、それだけ重視してのことであろう。神田は私の問いにこう答えている。
「社会課に在勤したころ(昭和39年〜45年)氏と接触が深くなった訳だが、当初その風貌からくる威圧感のためか、前土建家という様な色眼鏡で見て、何か裏がある印象を持っていた。しかし時間を経るに従って、この人の純粋さ、優しさというものが分かってきた。この人は本物だと思いが至るに、時間がかかったように覚えている」

影山は、一見して底まで分かるような人物ではなく、奥の深い人格だったのであろう。

長男浩三が語ってくれた影山学像のうち、私は一つの事柄に興味を引かれた。
「この九重荘の場所に父の生家があった。通称二軒屋と呼ばれていた土地で、その一軒がそうである。父は農業よりも勉学を好み、16歳で家を出て、名古屋電気学校で技術を学んだ。浜松日本楽器の大争議(大正15年)の支持者となり運動に加わったり、農民組合運動にも関心を持っていた。そのためか終戦まで特高にマークされる一人であった。自分では立たなかったが、終生政治的関心は旺盛だった。
若い頃は職業も転々としたようで、保険の外交から、撞球場まで開店している。戦後土建業はかなりの規模で経営していた。父は人情に通じていたと思う。人のために一肌脱ごうという性格は若い頃からのものであった。」

影山は慈悲庵の事業が自分のライフワークと理解するまで、順調に人生をおくってきたわけではない。十分辛酸を知っていた。それだけに、困難に喘ぐ人、悲しみに泣く人への共感は真実なものがあった。

――影山先生のことを私たちは”おひげのおじいちゃん”と呼んで尊敬していましたが、影山先生は少しもおいばりになることがなく、不幸な人の世話をするのがいかにも楽しいといった具合いで、いつもニコニコしておられました。いまでもそれはお変わりになりません。義理人情など忘れられようとしている時に、影山先生のご努力には、ただ頭が下がります。(私の福祉三十年の道 影山学著 53P)――

浜松市鴨江町2丁目施設(浜松希望寮)の近くで、30年間、影山を身近に感じてきた”タバコ屋のおばあちゃん”の言葉が、一番簡にして要を得た、影山像なのかも知れない。

創設エピソード

「昭和24年12月21日、今日は山下町の久保田さんの上棟式である。し業員10余人と天林寺の東側の道の作業を終えて帰る途中、山の中腹の壕の入口に一人の、老人の姿が眼に映った。何か心ひかれるものがあり皆をまたせて山に登り壕の入口に立っている老人を見て驚いた。20年前日本楽器争議(日本三大争議といわれた)当時、活躍されたH老人ではないか。ふっと顔を見合わせ一時は言葉もなく只々無言の内に時は過ぎた。ああHさんですねと漸く口を切り、種々お話するうちH老人の言うには「浜松市は戦災に依り終戦時は人口8万と約3分の1に減り各所の壕で生活を営むもの、また橋の下に住むもの等数知れない」との事、私はHさんに「Hさん、私がたとえ3坪のバラックでも何とか致しましょう。」と約束して帰路につきました。
早速、今日の出来事を家内に話したところ妻は「私たちはお互い40歳を過ぎて、こんにちまでしあわせな生活をおくることが出来たのは皆様のおかげですから、この社会に対する恩義を世の為、人の為、どんな小さい事でもよいから致しましょう。と、妻の協力姿勢がわかって話はまとまり、現在の土建業をやめる事にしました。(中略)
当時、遠州土建合資会社従業員70名早速各関係者一同に話をしたところ、こころよく了解していただき、早速八方手をつくして土地の選定には日夜とび廻り、漸く鴨江町に100坪余の市有地をさがしあて、ここで第1歩をふみだすことを決意いたしました。幸いに吉田兄弟の協力を得て、作業場として使っていた建物を移転して、これを立て直し、ここに前記H老人を迎えて、入居者第一号とし発足したのは昭和25年5月5日のことでした。
この日から、夫婦一体となっての私の社会福祉事業実施の第一歩が不安な足取りながらあったのでした。」(幸への道遠く 影山学著 1P)

影山がここで極めて率直に「夫婦一体」と書いているが、長男浩三は次のように語ってくれた。
「母は、かかあ天下と空っ風で有名な、群馬県前橋の出身であり、確かに気丈夫な人だった。社会事業への転身も母の決然とした意志が父を誘導したのではないか。昭和25年から30年まで、極度に困難な事態であったが、母は一歩も引かなかった。母の支えがあってこその父の仕事であった。」

民間社会事業家には決して珍しい例ではないが、影山夫妻も又その一つであったようだ。
夫人エイさんが脳卒中で倒れたのは、浩三が言う極度に困難な事態の終盤に当たる。影山は傍目が羨むほど、長い間懇切に病妻の面倒を見た。病態が悪化した最後の二、三週間は不眠不休の看護をしたという。
その後氏は、縁あってりゅうさんと再婚された。事業は軌道に乗りつつあったが、それだけに問題も山積みし、影山はこの新夫人に対しても、夫婦一体の労苦を強いる結果になったようだ。

35年のあゆみ

ここで影山が辿った事業の歩みを、年表にして記してみよう。

(昭和25年5月から昭和60年12月までの年表 省略)

更に高齢者介護ホーム小萩荘の設立等、数々の地域サービス事業を胸に育みながら、氏自身の終焉を迎えることになる。

ここで、氏のハイライトを紹介してみよう。
昭和55年5月9日、夫妻は天皇陛下の園遊会に招かれている。古風な心情の彼には非常な感激であったようである。彼はその時「今日まで社会福祉事業を続けてよかった」と思い「園遊会に招かれてそれだけ借りをした・・・・・・これを返すために一年でも長生きしなければ」と心に誓っている。その折の妻のことを、彼は次のように語っている。

――一方、妻のりゅうは、唯、泣いているばかりで、唯”有難い”というだけで私にも何もいわないが、滂沱として流れる涙は、30年の苦労のひとこまを一つずつ思い出しての涙ではないかと思う。私は貧乏暇なしで家庭を顧みることがなかった。恥ずかしい話であるが、妻は子供の養育を一手にひきうけ、施設の世話もし、じっと耐えてくれていたことが、園遊会で招かれて初めて分かった気がした。恐らく、財布の中は空っポでありながらも、施設のために苦しいやりくりをして、私にはそれを知らさずに、普通の顔をしていたこともあったであろう。その妻はいま足を痛めて体が不自由になっている。それが社会福祉事業につくした結果とはいわないが、本来私の背負わなければならない荷物を妻に背負わせた結果であるかもしれない。(私の福祉三十年の道 影山学著 37P)――

私は今回、影山の書いたものを一通り読んでみたが、この箇所には一入心を惹かれた。
ここで泣いているのは後妻のりゅうさんである。しかし影山はここに亡妻のエイさんの姿をも見ているのである。一人の姿の中に二人を重複させて、夫として感謝し、すまなかったと悔悟もしているのである。ここで30年の苦労とひっくるめて言ってしまった氏の心情に、私は人間影山の真実に触れた感がした。

業界のオルガナイザー

昭和60年2月に発行されている「創立30年のあゆみ」を見ると、こう書かれている。

――現在、影山学氏は社会福祉法人慈悲庵理事長の外、静岡県民間福祉事業施設連合会会長、全国更宿施設連絡協議会副会長、静岡県社会福祉法人経営者協議会副会長、静岡県社会福祉協議会理事、静岡県民間福祉施設従事者共済会副会長などに就任し、静岡県下における福祉事業の重鎮として多忙の毎日を送っている。――

「父は内輪の者からいうと、人のことばかり考えて走り回るお人好しに見えた。もう少し内に直接役立つ働きをしてほしいとぼやいたものである。戦後ララ物資を導入して市公会堂で盛大に販売会を開き、民間各施設に分配するような仕事がはじめてではなかったか。県民間施設連合会と県民間福祉施設従事者共済会の組織発展のために、随分心を労した人であったと思う。福祉施設はみんな公平に、業界全体として安定して発展することが望ましいと考えていたようだ。」

社会福祉事業家と称するなら、私もその一人かもしれない。しかし私には、この影山のような活動は絶対できそうもない。パーソナリティーの相違と言ってしまえばそれまでだが、氏に似た活動をして下さる人々のおかげで、何もできない私たちも平等の恩沢を受けるわけである。本当に感謝である。
氏は業界団体を行政に対する圧力団体と考えているわけではない。官民一体となっていう言葉は、用語として空虚に過ぎるが、影山が使う場合、充実感があった。すでに退職した人々であるが、県や市の福祉行政担当者の中で、今尚、氏の人柄を愛する人は少なくない。
同時に氏は、福祉の制度や経済などハード面を重視して東奔西走していたわけではない。福祉にとって第一義的に大切なのは何か?

氏は上記の様な多様な活動に励みながら、こう言い切っている。

――億万長者がポンと大金を慈善事業に投げ出せば、それが福祉事業が成長するかどうか。私があえてこの答えを出さなくても、皆さんにお分かりいただけると思う。金も必要であるが、同時に心も必要である。だから”金”と”心”があれば福祉事業は充実するのだ。しかしこの金と心の二者択一を求められたら、私は迷うことなく”心”をとるであろう。金は無理をすればできるが、心は金で買うことはできない。(私の福祉三十年の道 影山学著 52P)――

ある人が私に教えてくれた。「影山氏はあそこで億万長者とではなく、政府がと書きたかったのだが民社連の会長だったものだから」と笑っていた。
業界のオルガナイザーではあったが、氏は行政責任追求型の人物ではなかった。

一誠萬機通

私は影山氏よりも年齢では23年若い。福祉事業でオリジナルな仕事を始めたことでは、14年遅い。日本が経済的な高度成長を続けながら、福祉の面でも高度成長期に入る直前に仕事を始めた。従って、氏に次のようにいわれるとグウの音もない。

――いまの施設と大きく異なっている点をあげると、いまは施設の設立と法人許可は同時になっているが、昔は2年間の実績を出して、3年目に関係官庁が調査し検討した上で、ようやく許可が出る。だからそれまでは個人でもなければ(実際は個人であるが、性格上)法人でもないという妙な存在であった。言い換えれば、3年間は全く補助を期待せず、自費で頑張らなければならなかった。(中略)その点、いまの施設経営にあたる人は恵まれていると思う。(私の福祉三十年の道 影山学著 23P)――

一時代前の先輩は、(児童の領域でいうと寺田銕、戸巻俊一、石丸のぼる、志賀口覚といった人々)皆、私達より格段の労苦をしながら後進のために道を拓いてくれている。影山もその一人であることは、前節で述べたとおりである。

長男浩三は父の夕暮れの一こまをこう語る。
「父の晩年で一番嬉しかったのは、希望寮の入所者だった人の同窓会(昭和58年より)ではなかっただろうか。希望寮はそれまでに千人余の人々が入退所していたが、その一部の人々が同窓会を開き父を招待してくれた。出席者は戦後苦しかった時代を希望寮で過ごした事を少しも恥と思わず、感謝して、妻子を伴って誇りを持って集まってきた。そしてできればもう一度体験したいと懐かしんでいた。父は十分報われる思いがしたようだ。父は3回招待されていたと思う。」

昭和60年11月の末であった。希望寮の前にある松の下で、影山は迎えの車を待っていた。寒い日であった。老齢の身に耐え風邪をひいてしまった。その風邪が長引き家で十日程伏せっていた。12月7日の明け方である。浩三が覗くと様子が急変している。医師の手当ても空しく、影山は卒然と去った。心筋梗塞が直接的な死因であった。
享年82歳、勲六等旭日章を受章「一誠萬機通」を生涯の座右銘としていた。(山浦 俊治 筆)

※ この文書は平成元年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )