民生委員・児童委員活動の歴史
大正6(1917)年 | 岡山県で民生委員制度の源と言われる「済世顧問制度」が発足 |
---|---|
大正7(1918)年 | 大阪府で「方面委員制度」が発足 |
昭和3(1928)年 | 方面委員制度が全国に普及 |
11(1936)年 | 方面委員令公布。これにより方面委員の活動が全国統一的に運用されるようになる |
13(1938)年 | 厚生省設置、社会事業法公布 |
21(1946)年 | 民生委員令公布(方面委員は民生委員と改称) |
22(1947)年 | 児童福祉法公布(民生委員は児童委員に充てられる) |
23(1948)年 | 民生委員法公布 |
26(1951)年 | 民生委員信条制定 |
30(1955)年 | 民生委員・児童委員協議会を組織 |
43(1968)年 | 「在宅ねたきり老人実態調査」を実施 |
46(1971)年 | 〈丈夫な子どもを育てる母親運動〉 |
52(1977)年 | 「老人介護の実態調査」 |
59(1984)年 | 〈心豊かな子どもを育てる運動〉を全国的に展開 |
60(1985)年 | 「在宅痴呆性老人の介護者実態調査」 |
平成6(1994)年 | 主任児童委員制度の創設 |
9(1997)年 | 「子どもと子育てに関するモニター調査」 |
12(2000)年 | 民生委員法、児童福祉法の一部改正 |
制度のはじまりエピソード1:笠井 信一 氏
大正5(1916)年5月、宮中で開催された地方長官会議の場で、当時の岡山県知事であった笠井信一氏は、大正天皇から「県下の貧民の状況はどうか」との御下問を受けた。 笠井知事はすぐに岡山県内の貧困者の実情を調査し、悲惨な生活状態にある者が県民の一割に達していることが判明した。この事態の重大さに同知事は、日夜研究を重ね、大正6(1917)年5月、「済世顧問設置規定」を公布、民生委員制度の源と言われる済世顧問制度が生まれた。
民生委員制度40年史(全国社会福祉協議会)より
制度のはじまりエピソード2 :林 市蔵 氏
大正7(1918)年秋の夕暮れ、大阪府下のある理髪店で50歳くらいの紳士が散髪していた。
鏡に写る街の風景を見るともなしに見ていた紳士の目は、ある一点に釘付けになった。それは、40歳くらいの母親と女の子が夕刊を売る姿であった。散髪を終えた紳士は、その夕刊売りに近づき1部買ったあと、一言、二言話しかけ、その足で近くの交番に立ち寄った。
紳士は、この夕刊売りの家庭の状況を調べさせたのであった。紳士は、当時の大阪府知事林市蔵であった。
後日、巡査から次のような報告があった。
街角で見かけた母親は、夫に先立たれ、3人の子どもを抱え、夕刊売りでやっと生計を立てている。子どもたちは、学用品を買えず、学校にも通っていない。
林知事は、自らの幼いころの貧しい生活を思い起こし、しばらくは、目をとじたままであった。このような母子は他にもいるはずだと思い、部下に調査を命じ、管内をいくつかの方面、今でいう地域に分け、それぞれの方面に委員を置き、生活状況の調査と救済などの実務にあたった。
方面委員制度の始まりである。
民生委員制度40年史(全国社会福祉協議会)
民生委員制度創設80周年記念誌(熊本県民生委員児童委員協議会)より
民生委員のマークの由来
現在のマークの図柄は昭和35年(1960)年に公募して選ばれたものです。
幸せのめばえをしめす四つ葉のクローバーをバックに、民生委員の「み」の文字と児童委員をしめす双葉を組み合わせ、平和のシンボルの鳩をかたどって、愛情と奉仕をあらわしています。